第7回 2010/02/23 |
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刑罰の石を背負うて夏野かな 虚子 |
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明治三十八年七月二十八日、癖三酔、松濱とともに句会を開いている。 『年代順虚子俳句全集』では次のような句とならんでいる。 馬の背に大河の見ゆる夏野かな 拓きかけて木綿つくれる夏野かな 磊々たる石に雨降る夏野原 俳句の連作の会であろうか。題として「夏野」の連作を作っている。掲句はあたかも北海道の開拓史を想起させる。 かつて明治時代には囚人たちが、増毛や網走あたりの大規模監獄の設営と開墾をかねて送致されたと聞く。その者たちは、道を拓き、田畑を開墾し、かつ官舎や監獄の建設に冬夏を問わず従事したという。 その光景が脳裏をかけめぐるような巨大な写生的な作品群である。 そして、その者たちはほとんどが無期懲役や死刑囚などの重罪犯であった。その労働の過酷さは一連の小説にもなっているが、それらの結果頓死した者たちへの鎮魂歌のようでもあり美しく哀しい。 このころ虚子や内藤鳴雪らは「一題十句」と称して鍛錬会のようなものをひらいていたと推測される。 第一回目の兼題が「灯取虫」二回目が「蚊遣」三回目が「夏野」であった。 したがって、当然これらの句は写生したようなものではなく、想像の中で作られたものであろう。 ところで虚子はこの時代はかなり写生文や小説に色気があったころである。それらは、明治三十八年一月の「吾輩は猫である」の「ホトトギス」への発表が当然影響している。「ホトトギス」も百号に達し、虚子も「影法師」「麓茶屋」などの写生文を載せている。 行水の女に惚れる烏かな 虚子 これも明治三十八年の作。くわしい月日はわからないが、『五百句』『喜寿艶』にも掲載されているなかなか有名な句である。 しかし、あえてこの句は取り上げず掲句を論じたのは、虚子の句の小説的雰囲気よりも写実的雰囲気が俳句のほうに充満しかかっていると思ったからだ。 漱石の誕生によって虚子の無意識は、文章よりも俳句への復帰をうながしていたのかもしれない。 |
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(c)Toshiki bouzyou | ||
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