第11回 2010/03/23 |
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凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり 虚子 |
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明治四十一年八月二十三日 日盛会 |
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ある座談会での発言。 司会 この俳句は、まことに長いですが、伝統派の貴殿としてはいかが鑑賞されますか。 坊城−以下・坊− 「およそてんかにきょらいほどのちさいさきはかにまいりけり」七・十三・五とでもなりましょうか。七・六・七・五としたほうがリズムとしては短詩型らしい。ともかく、有季定型派としてはまことに困ります。 その墓は京都の落柿舎あたりとされていますが、実際は哲学堂の近隣の真如堂にある小さなものがそれと言われています。ただ「去来」と書いてあるので虚子はそれに打たれたのでしょう。ただし、その去来一族の墓としては別のところにあるという説もあります。 司会 去来という人はどんな人だったのでしょう。 坊 去来忌やその 昭和十七年十月にこのような句があります。虚子は去来の人格に大いなる尊敬をはらっていたのでしょう。その人情に篤く、誠実な人柄を偲んだのです。 芭蕉の十哲としても最高峰のこの俳諧の奉行は武道をとおして師からも愛されていたのです。したがって上五の「や」は単なる切れ字というよりも、詠嘆の「や」であると考えられます。 そして、だからこそこの二つの句があります。特に掲句は虚子をしてその二百年ほども前の墓に佇んだときの感動を押さえきれなかったのでしょう。 司会 「参り」と「拝み」の違いは。 坊 「参り」の時点での虚子は、三十五歳くらい。「拝み」の虚子は六十九歳。先づは天下第一等の偉人にたいする挨拶としての「墓参り」にたいして、去来の忌日を拝む気持ちは俳壇を継承してきた巨人の感謝の気持ちであると思います。 実は、私事ですが数年前、長崎でおこなわれた去来忌俳句大会に招待頂いたことがありました。虚子もかつて来ていたと伺いました。それから数十年後の親族の参加です。没後三百年をしてのご縁には感慨深いものがありました。 それにしても掲句の虚子らしからぬ句のありようは異常です。その理由は、墓のまれにみる小ささが感動を増幅したのでしょう。 虚子という人は、俳句をひとつの「道」として考えています。文芸というだけでなく、より神聖で宗教的なもの。虚子の謂う「芭蕉の文学」が俳句であり、その実践者の第一人者の去来こそがもっとも敬意を払う人物であったのです。 |
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(c)Toshiki bouzyou | ||
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