第26回 2010/07/20

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   年を以て巨人としたり歩み去る    虚子 
      大正十二年十二月二十一日
      発行所例会。集るもの史耕、再生、子瓢、薫子、水巴、無為、月舟、青鏡、
      落魄居、零餘子等

 これもまた虚子という大きな存在感そのものの句である。
 ところで季題は何か。「年」を以て、「歩み」「去る」ということで、「年歩む」「去ぬる年」あたりか。いずれにせよ「行く年」が主題となるであろう。
 「年の暮」というよりもはるかに主情的である。年の流れてゆくことを感慨を以て眺めている。かつては年末が冬の終わりそのものであった。その季節を惜しみ、年を惜しむ気持ちが強い。
 
  灰の如き記憶ただあり年暮るる

 同じ時に「年暮るる」という季題の句もある。こちらはその年の暮れることをただ描写している。しかし、「灰の如き記憶」という過去の鬱々たる記憶を言う。あまりにこの近年の過去は灰色のものとして鬱々たるものだったのかもしれない。
 言わば、虚子にとっての大正二年は激動の一年であった。当初は過去の俳句と疎遠の時代を引きずっていた。その後は俳句復帰をする情熱の年であった。
 つまり、この句はむしろ大正二年の二月以前のことなのではないか。それは、碧梧桐たちの俳句運動に鬱勃とした気持ちを持っていた灰色の記憶である。
 それにたいして、掲句は新しい年へ向かって歩み去る今年の大いなる可能性に満ちている。
 大正二年の年末の句でありながら、その大正二年そのものが巨人と変化して歩み去るところである。そしてそれは、もしかしたら虚子自身の後ろ姿なのかもしれぬ。
 
 大正二年には「発行所俳句例会の記」という文章もある。
 それによると、虚子の家が神田にあったことからその便利さで子規の根岸からだんだんと俳句会が移ってきた。やがて、虚子や鳴雪らの主導でいつのまにか「発行所例会」という名がついたという。
 ある時は二十名から三十名もの俳人が集った。
 しかし、そこには「ホトトギス」べったりの人と異なり、東洋城や水巴などの俳人も見られた。いわば、子規の元から派生した流派の超党派的な色彩もあった。
 その席上で佐藤耐雪という人が、
「新傾向句も厭になったのですが、其かと言ってもとの古い句に戻って見ると物足らぬ心持がします」と言った。虚子は、
「物足らぬやうに思ふのは句の内部に潜在してゐる意味を考へぬからでせう」
 これは当時「新傾向句は活動的である。虚子の句は静止的である」という他人の言にたいするものであった。また虚子はそれにたいして、
 「活動的、静止的といふ言葉を使うより活動的・カイネチック、潜在的・ポーテンシアルいとふ言葉を使ふ方がよく其の意を尽すであろう」とも言っている。
 掲句はまさに活動的・運動的なKineticであり、且つ潜在的・Potentialな双方を持つ。
 この句においては、かつての虚子の静止的なものと、これ以降の潜在的な句をつなぐ運動的で活動的な句なのであった。
 ふしぎなことにそれは、新傾向の句のそれを踏襲するような形になったのだが。
 
 余談であるが、この例会に居た「薫子」とは筆者の祖母の坊城延子であったかもしれない。未確認であるはが。


 



(c)Toshiki  bouzyou
前へ 次へ   今週の高濱虚子  HOME