第31回 2010/09/07

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   この路を我等が行くや探梅行    虚子 
                 昭和二年二月三日七宝会、大船、鎌倉探梅。松本たかし等。

 この句の少し前に次男の池内友次郎が、一月三十一日に箱根丸によって横浜港から出帆する。フランス留学のためである。
 友次郎は、日本人として初めてパリ音楽院に入学し、ビュッセルらに作曲・音楽理論を学んだ。フランスの音楽をいち早く日本に持ち込んだ音楽家といっていいだろう。
 虚子の次男というものは、長男である年尾の俳句における継承をねたむものではなかった。むしろ、次男としての伸びやかな自由を享受し、自身の好きな道を歩んだ。
 西洋という言葉は古いかもしれぬが、虚子と異なる仏蘭西の音楽への道を歩み始めたのは今思ってもまことに闊達でハイカラなものである。
 父と同じ道を歩まないすがすがしさというものもある。
 「この路を」の路とは梅を探す路であって、大道であるわけではない。鎌倉の小さな路である。それにくらべて次男の友次郎は大きな大海への航路をとった。
 父である虚子はそのことを誇りに思ったであろうし、すこし淋しかったかもしれない。子供の道と父の道。俳諧の道とは常に日本の路を散策し、吟行すべき道なのである。
 
  装ひて来る村嬢や芹の水    虚子

 同日の句。「そんじょう」「むらはは」とでも読ませるのであろうか。
 母とあらば、娘ではない。が、ここは若き村の娘がたまたま着飾ってやってきた、くらいで良いのかもしれない。
 まことに日本的風景であり、松本たかし等の俳諧ご一行様の行列に出会った娘のはじらいも見えてくる。
 しかし、昭和二年という時代は俳句や俳諧以前に世の中が変革する胎動にあった時代である。
 ご一行様は堂々と梅探訪への路を歩む。しかし、ここで出会う芹の水に似合う女はもはや着飾る時代でもある。次男は洋行への道を歩む時代でもある。
 より精密に言うならば、軍部が台頭し、やがて満州への侵攻がはじまる時代でもある。
昭和金融恐慌がはじまり、山東省への出兵を陸軍が始めたころである。その反面、銀座にはモガモボなどのモダニズムを気取った男女が闊歩していた。
 俳諧の発句であるという伝統と俳句とのせめぎ合いにくれ始める虚子。ご一行様はそんな伝統を錦の御旗にかかげて梅の路を歩いている。もう、芹を摘む百姓の女も着飾る時代なのにである。
 「我等」という言い方がカワイイ。いいオッサンたちが、意気揚々と句帳を片手に梅園をウロウロしている。そのちっょと先にはヨーロピアン風の身体の線を出したカフェーの女の嬌声が取り巻いているのに。

 しかし、この時代の誤差というものもまた現代にも見られる。歴史は繰り返す。それがかえってまたすがすがしいではないか。




(c)Toshiki  bouzyou
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