第39回 2010/11/9

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   咲き満ちてこぼるる花もなかりけり    虚子
                 昭和三年四月八日

 潮干句会。鎌倉稲村ヶ崎、堀内別邸。食後妙本寺、光明寺の花御堂を見る。倉岩、秋桜子、素十、みづほ、風生、花蓑、たかし、手古奈等二十五名。

  妙本寺は神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の本山。山号は長興山で鎌倉時代の文応元年(1260年)の創建。開基は比企能本、開山は日蓮大聖人、十界曼荼羅を本尊とする。
光明寺は浄土宗の大本山。寛元元年(1243年)の創建。開基は浄土宗三祖然阿良忠上人。
 どちらにも桜は存在するようで、しかし前書きの花御堂がその舞台とすれば光明寺の桜を観賞したものか。
 
 とまれ、この句をして虚子の代表句とする人は多い。
 奇しくもこの四月八日は虚子の忌日となる。因縁めいて言うならば、その日に作ったこの句こそ、虚子という人の歴史的偶然とも言える名句としたい。ましてや、この年、昭和三年における花鳥諷詠の提唱を思えばその意味での代表句としてもさしつかえなかろう。
 しかし、この句は自選句集の最高峰の『五百句』には入っていない。なぜなのかという問いはその後さまざまな人の間で議論された。

 やっと『虚子句集』岩波書店・昭和三十一年の「五百句時代」の項にこの句が見えてくる。
 ずいぶんと埋もれていたものだ。
 花鳥諷詠の提唱はこの年の四月であるから、この句を作ってからその発表日の四月二十一日までにはわずか七句しか作っていない。
 
  下草に落ちしづまりし落花かな
  雨の掌にすくひてこぼす蝌蚪の水
  どうだんの刈り込んである木の芽かな
  行人の落花の風を顧みし
  太夫待つ桟敷の群衆おとなしき
  太夫見の向ひ桟敷の見知り人

 これだけである。
 もっとも「雨の掌」と「どうだん」の句は日にち不明らしく、ひょっとするとわずか五句かもしれない。
 それがどうしたと言うなかれ。この近接は虚子をして、無意識の中でのこの句の花鳥を諷詠するための命題あるいはレゾンデートルと言うべきものになり得たのではないだろうか。
 そして、それを発見したのは虚子自身もさることながら、秋桜子、素十、みづほ、風生、花蓑、たかし、手古奈といった当時の最高峰の弟子たちの選句による所業ではなかったか。
 あるいは、それを後押しした者が歴史の証人でもある、比企能本、日蓮大聖人たちであったならばより合点がゆく。
 むろん虚子の無意識下によるのだが。
 
 この句を観ると、私はいつも加山又造の一連の桜の絵を思い出してしまう。
 そう、この句は「読む」ものではなくて「観」たり「感じ」たりするものではないかと。それは共に「花」の存在そのものを諷詠し且つ描いている、花そのものである。




(c)Toshiki  bouzyou



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