第48回 2011/1/26

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   止りたる蠅追ふことも只ねむし     虚子
        昭和四年六月十一日  平壌、お牧の茶屋

 虚子はこの年に朝鮮への旅に就く。
 五月十四日に発ち、満州を目指す。二十七日には遼陽に至り、その後六月一日にハルビンに到着。
 写生文『朝鮮』でたびたび登場するのが、お牧の茶屋。日本人夫妻が経営している。そこを虚子たち一行はいたく気に入る。
 この小説は実に長いものであるが、あまり人々に感動をもたらしているとは言い難い。全集に収録されていても、近年の単行本にはなっていないのでもそれがわかる。
 写生文が基調なのだが、旅日記のようなもので延々と書き綴られていることが読み手を飽きさせるのであろう。
 かように異邦の人々や山河を描写していても、ほんとうの「山」が無いと他人に読ませることは難しい。
 子規が「ホトトギス」ではじめた写生文とその発表の場は「山会」と称した。
 それは文章には「山」が必要であり、写生をしつつも、その山でいかに読者を引きつけ、その描写の裏にある余韻を楽しませるかが眼目であった。
 いまでも残る「山会」であるが、過去どれくらいの「山」が人を魅了したか。
 夏目漱石という人の写生文は別格としても、虚子のこのような長文の写生文には、それ自体の特性としての弱点があるのではなかろうか。「山」がよほど高く聳えて、且つ幾度も登場せねばなるまい。
 虚子の写生文の傑作と呼ばれる「虹」や「風流懺法」などは、ほとんど小説に近い。むろん、史実を嘘の無く写実的に書いているのだが、それらの情感はひしひしと伝わってくる。
 ひとつは、題材そのものを吟味し、また登場人物の魅力的なことにあったろう。
 このような虚子一族が単なる観光のような雰囲気で、延々と旅情をむさぼるのでは、他人様は少々うんざりであろう。ましてや、日本の軍国化と市井の人々の窮状を見ればいわんやである。

 とまれ、この句のように、この文章は退屈で只眠くなるのである。
 その意味でこの句は象徴的であり、佳句である。


(c)Toshiki  bouzyou

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