第81回 2011/9/27

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹



   たとふれば独楽のはぢける如くなり    虚子
        昭和十二年三月二十日
        「日本及日本人」碧梧桐追悼号。
        碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり

 河東碧梧桐は同年の二月一日に亡くなる。
 歴史の中では、碧梧桐が子規の写生を根源的に実践しようとしすぎて、無中心主義になったことで虚子とのあつれきが生じた。
 自由律・破調といつたことはその後の変遷であって、当初は無中心によって、つまり写真のように眼前のすべてのものを写実的に俳句に盛り込もうとした。おのずと季題ばかりが中心でなくなり、かつ五七五に盛り込むことも必然でなくなる。
 ある意味で碧梧桐のほうが子規の写生により従順であり、虚子のそれは季題諷詠という独自の路線に入っていったとも考えられる。
 その後の歴史は周知の事実であるが、碧梧桐と虚子はプライベートにおいては昔とかわらぬ交友を続けていた。
 年尾や立子も、碧梧桐の小父様と言ってはなついていたし、虚子もその死の際には、
 「一月九日に青々君を失ひ、一月一日碧梧桐君を失ふ。旧友凋落、聊か心細い感じがいたします」と哀悼の意を述べている。
 「独楽」が虚子と碧梧桐であることは間違いないが、この句の普遍性は世の中のライバルというもののすべてにこの句が当てはまるということであろう。
 この句は弔句であるが、それは死去のすこし後に発表された。そのためか、「贈答句集」に掲載されずに「五五十句」にのせている。
 単なる弔句におさまらないのは、この「たとふれば」の前置きに、重畳たる虚子と碧梧桐の明治初期から当時にいたるまでの人生の軌跡が省略されていることだ。
 その数十年間の子規からはじまる、俳句の歴史がこの二人の歴史とシンクロして現代の俳句を形成したことを思えば、いかにこの句が巨大な存在であることがわかる。
 喧嘩独楽は火花を散らして回り続ける。やがて負け独楽が倒れ臥すと、勝ち独楽もまた回転をやめる。
 虚子はこの独楽の勝ち組になったという感慨より、ただ無常観ばかりが残っていたのではかろうか。やがて、受賞する文化勲章のときの、

  我のみの菊日和とは夢思はじ     虚子
    昭和二十九年十一月三日宮中参内。文化勲章拝受。

 この句には、子規やその他のあらゆる俳人たちへの感謝とともに、それらすべての者たちとは異なるポン友、碧梧桐への思いが沸々と沸いていたはずである。





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