虚子伝来 vol.2 2007/05/08 |
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「俳句をなさる前にひとこと」 |
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俳句にかぎらないことなのですが、日本人はとても師系というものを尊重します。 つまり、私はどこそこの誰の弟子でありまして、その誰の師匠は誰それでそのまた師匠は誰という偉い先生なのです、と。 そういうふうにして、人脈といいますか派閥といいますか、どの世界でもその血統のようなものが珍重されます。 もともと日本の歴史もそういう歴史であったのですね。天皇や公家の世界、武士の世界であってもその中の正統性を確信するためのシステムであったのはごぞんじのことと思います。俳諧の歴史などでも芭蕉あたりから宗匠の系列が商業的に成立するほどの正統性をもって発展しました。 かくいう私も俳句の家に生まれ、虚子の一統であるというふれこみで俳句の仕事をさせていただいてます。だから皆さんDNAが特別ですねとかおっしゃって、持ち上げてくだいますが、最近どうもむしろ正統的に劣っているのではないかと考えております。 といいますか、日本の正統性をつむいでゆく資質というのは、血統としてのそれより、いかに形式的・正統的に前のしきたりを継承してゆくかという、日本的才にであるのではなかということです。そのためには、むやみやたらのDNAなぞは不必要でありまして、より純粋な師弟の関係を邁進する心構えのようなものが必要なのではないかと思うのです。 たとえば、 「あら坊城さん、ご覧なさい蕗の薹がでてますよ。この緑の息吹にやっと春の風が触れる季節になったのねえ」 「はあ、そうですね。まだちょっと苦そうですが、雪を押し上げた生命力というのはなんともおいしそうですな。今晩はこれを天ぷらにして地酒といきますか」 「見てご覧なさい、山裾に放牧されている馬たちを。それはもう鬣をなびかせて生き生きと走り回っているわ。」 「いやあ本当にすばらしい躍動感ですね。あの一番大きい黒いのなんか馬刺しにしたら一番うまいでしょうなあ。けとばしは桜肉のことですから、蕗の薹をけとばして桜肉で一杯というのも風情がありますね」 すると俳句の先生は無言で立ち去った。ということになってしまう。 このような師弟の美意識の差というものを、いかにあいまいにしながら継承してゆくことは重大な問題なのです。 それは俳句以前の問題なのですが、ことに俳句という世界でもっとも短い詩の世界においては、それを定型の器に盛り込む必要性から形式美の継承というものが必要になってくるのです。そこにはたらく感性は時によっては不必要であったり、場合によっては障害にさえなってくるのです。 だからこその正統性を守るための師系でありまして。文芸としての俳句の特殊性はそこの重用にあると申しても過言ではないでしょう。 でも、あまりに師系というものを尊重することで多くの悲喜劇が歴史を彩っております。 そもそも芭蕉にしても西山宗因の談林派あるいは貞門派にたいする師匠の北山季吟の姿勢を見て正風の確率へと邁進しました。しかし、その死後の弟子たちのさまざまな芭蕉模倣の結果、またあらたなる月並みな俳諧のどん底の時代へ戻っていったのです。 ファッションとしての芭蕉しか継承できなかったのですね。凡才たちには天才の模倣は無理であったのです。そう、やがて現れる天明の天才の蕪村を待つことになります。 虚子の時代もそうでした。生きている間はそれなりの、虚子山脈の動乱もございましたがそれはそれとして俳句の歴史には必然のようなものだったのでしょう。問題はやはりその死後のことです。 やはり百花繚乱のごとく、その模倣あるいはアンチテーゼによって地殻変動が発生いたします。あるものは社会性を帯び、あるものは血統にこだわり、あるものは自主懐古路線をとり、あるものは俳句形式そのもののディコンストラクションを試みます。 いわゆるファッションとしての虚子を模倣したのは血統派と懐古派であったのでしょう。最近の伝統派もここに属するものです。芭蕉時代の宗匠を生んだように、ここにも宗匠を生んだ気配があります。そのことについてはあらためてお話しますが、一つの巨星が墜ちますと歴史は繰り返すのです。しかし、それも歴史です。芭蕉ファッションが跋扈せねばその後天明期の俳壇復興はなかった。月並み宗匠が跋扈せねば明治期の子規はなかった。そして・・・・・・ 師系というものを尊重する日本の俳句。そこにはひとくくりにできない功罪が隠されています。それは日本人の感受性そのものでもあり叙情そのものです。その師系が生んだ短詩はまったくの自由詩ではありません。それはこれからも俳句とともに影のように歩んでいることでしょう。 同時にだからといって俳句の世界はがんじがらめにされていると思うのは短兵急です。俳句はその宿命によって、その定型という器によって窮屈な舞台でこそそびらに無限大の宇宙がひろがっているのです。 それを俳句の余韻といいます。 俳句は極楽の文学として救済を売ったりします。しかし、であればその師系の人しか救われないのでしょうか。となるとそれは一神教なのでしょうか。これから、この俳句のお話の中にはそれを問うていることが主体になってきます。俳句は万民のものであるという筆者の考え方から出発しております。 この俳句教室はそうでないと、空を飛べないのです。 空飛ぶ絨毯に乗って(ボーイング787ではありません)俳句をしてみたい皆様のもとへ着陸します。で、できましたら数人ずつ絨毯にお乗せして、師系で充満している俳句の世界を鳥瞰してみようと思うのです。 おそらく俳句を知るにはそれが一番。だからといってすぐに俳句がうまくなるものでもありませんが、俳句がうまくなりたい方は21世紀、師系を超えた超師系であるこの教室を訪れてみてください。木戸銭はいりません。 さあいらっしゃい。いらっしゃい。 「俳句は犬でもできる」 俳句ってなんなのでしょう。 一般的には、 ●俳句は五七五 ●俳句の中に季節の言葉をいれる こんなところでしょう。小学生だって知っていますね。 まあ、この二つのきまりごとを守れば俳句はいちおう完成です。おいおいちょっと待てよ、そんなんじゃ馬鹿でもできるんじゃないの。と仰るなかれ。俳句は以上をもってほとんど完成です。うちの犬だってできます。 ワンワワワン ワンワンワワン ヘ−クション 吠えながら、寒いときなのでくしゃみをしたのですね。よく洟もたらします。「くしゃみ」はちなみに冬の季語ですね。「くさめ」ともいいまして。(犬ですのでクサメーとかは言えませんのでご容赦を) 口語体の俳句ですが、犬でもできるのです。今は、それを短冊に書けるよう訓練しております。なかなかむずかしいようですが。 そんなの俳句じゃないじゃないかー、と思われる方もいらっしゃると思いますが俳句はこんなところから生まれる庶民(庶犬?)の詩なのです。 ただ、ふしぎと思われる方もいらっしゃるでしょう。 ワンワワワン・・・・・6文字 ワンワンワワン・・・・7文字 ヘークション・・・・・6文字 であることです。575のはずなのに。真ん中の7はいいとしても上と下の部分は6ではないかと。そうです、文字数でいくとへんですね。俳句は17文字とよくいわれますが、実は俳句は17音であるのです。 この例でいくと、ちょっとくるしいですが最初の「ワンワワワン」の最後の「ワン」を1音として勘定できます。ONEというくらいですから1です(汗)同様に「ヘークション」も「ション」を2音として勘定しましょう。 つまり俳句とは文字の文芸というより、歌のような調べの文芸なのですね。 「津軽かぁいきょぉぉぉぉう、冬げぇぇぇぇしきぃぃぃ」石川さゆりさんは「津軽海峡」をこんなふうに歌います。 文字数にしたら壮絶ですが、ここをうまくフレーズに落とし込んでゆくわけです。 へたな人は「ぉぉぉぉぉぉ」「ぇぇぇぇ」「ぃぃぃぃ」ができませんから、曲が余っちゃいますね。 ともかく私はいまでも指でかぞえながら俳句を口でとなえています。俳句会の隣の人がくすくす笑うのですが、ほんとうにわからない時があるので、いっしょうけんめいに数えます。するとどうでしょう、文字で見ていた俳句の弱点とかが気がつくのです。文字だけではわからない歌唱性が俳句にはあるのです。 「津軽海峡冬景色」だけで、あの歌が蘇ってきますか。石川さゆりの声と和服の柄が浮かんできますか。やはり「ぃぃぃぃ」とコブシをきかせて歌わなくちゃいけません。 もうひとつは季節の言葉です。 「ヘークション」を季節の言葉と申しましたが。まあ、人間が作る場合は「くしゃみして」とかになりましょうか。咳ですと「ゴホンゴホン」とかの音声になりますが、それをそのまま俳句に入れてはちょっと無理かもしれません。最近は花粉症のくしゃみなどもありますので「くしゃみ」自体が冬のものともあやしいのですが。 とまれ、俳句には季節の言葉、つまり季語や季題というものを入れるのがルールです。なぜ入れるのかというと、入れるのがルールだから入れるのです。それ相応の理由はあるのですが、とにかく季の言の葉を入れるのがルールなのです。 信号は青で渡って赤で待つのです。イチローだってヒットを打てば一塁に走ってゆくでしょう。三塁や二塁にむかって走らないでしょう。それがルールというものです。 理屈っぽい人はとかくこのルールに疑問をはさみますが、そんな心配をする暇があるのであれば日本がこれから文化をどのように正統に継承してゆくか、世界の自然の温暖化から生物たちを守れるようどのように人類が歩むべきかを心配してください。 ところで季節の言葉といったって無数にありますね。 最近は「花粉症」「熱帯夜」はあたりまえ。「光化学スモッグ」「キャミソール」はもう古い?温暖化で「冬の蝶」ならぬ「南国の蝶」が冬に飛んでます。「クーラー」なんて全部「インバーター式エアコン」に変身。「真夏日」より熱い摂氏35度以上は「激烈日」(だったっけ?)「缶チューハイ」は夏。「ホワイトディ」は春。三月三日は女の子の節句、五月五日は男の子の節句、ならば四月四日はオカマの節句だそうです。 でも、それらすべてが俳句にとって季節の言葉でしょうか。 なんでもかんでも季節の言葉だからといったって俳句に入れるもんじゃありません。 口紅の髭なるオカマ祭かな 俊樹 なんてぞっとしませんね。 そもそも季語・季題というものは千年くらいの時を経て成立したものなのです。ここいら数十年の流行すたりできまるような軽いものじゃありません。かといって、いつまでも平安時代のままでいるわけにもまいりません。 その時代の美意識なども反映されて洗礼された季節の言葉が季題になってゆくのです。それこそ日本人の琴線にふれるものであったりします。 季節の言葉、その中でも俳句的によりすぐったものの集大成が歳時記です。いまはどこの本屋でも売っています。それは季題が満載してあるのですが、なにも俳句をしなくても日本人だったら買いましょう。一冊も持っていないのは恥です。 歳時記を使って文章も書けるし、手紙だって書けます。携帯のメールだってすばらしくなります。 「チョーゲンジツ。ヤッダーシンジラレナーイ。ゲキヤッベー」 こんなのが、 「畏れ多くも吉野の山桜の如くに落花あらせられる惜春の黄昏どき、云々」 などとまことに美しく華麗になります。(実際ちょっとこんなメール来たら引きますケド) ぼくはふろスイカはバケツですずしそう 俊樹 恥ずかしながら、私の俳句の処女作であります。 山中湖に虚子の「老柳山荘」というのがありまして、そこは当時息子の年尾が使っていました。当時私は六歳くらいでしたか、五右衛門風呂がまだあって、底板を踏みながら入るのですが、その熱いことといったら。 冷蔵庫もままならない山荘の、とびきり冷たい富士山麓の水道水に打たれている西瓜がなんともうらやましい。そんな俳句です。 中のところが8つです。字余りですね。それをまた俳句の重鎮に後年指摘されましたが、こいつは本当の馬鹿かと思いました。六歳の子の俳句ですよ。それの句の中七(ナカシチと読みます)が中八になっていたところでなんぞのもんじゃい。 皆さんはどうかそのような「重箱の隅をつつく俳人」になっていただきたくない。 かめむしがみんなとはなししたいらしい 五歳男子 以前、NHK全国俳句大会のジュニアの部で私が特選にとった俳句です。そのかわいさと亀虫にたいする率直さは目を瞠るものがありました。さて、当日にそれを読み上げますと、老練の俳人たちから字余りであるとの評。下六になっているのですね。 こいつらも脳軟化症かと思いました。 いいですか、俳句というのは五七五の定型であります。それはそうです。そのルールもルールです。松井もホームランを打つと全力疾走してホームに滑り込んだりしません。 しかし、俳句はそれ以前に詩なのです。子供達がもつメルヘンで想像性溢れる世界を壊してなにになるんでしょう。 この俳句もおそらくは親が子供がしゃべった言葉を書き写したのでしょう。だからこそ最後は5音ではなくて6音であるのです。話し言葉が俳句の定型にきっちりと入るほうが不自然であって、まして幼児の言葉の変態性と不連続性こそが俳句の余韻につながる。 その幼児の歌うような言葉にこそ言の葉の心が宿るのです。その詩としての本質をすべてのルールを理由に大人の権力を駆使して裁断するのは、いわば旧態依然のお役所仕事ではありますまいか。 犬やら子供やら昔の私などいろいろなのが登場しましたが、はたしていかがだったでしょうか。ご理解いただけましたか。 俳句はそれ相応のルールに基づいてつくられる詩です。そのルールはとても簡単ですが、そのルールはルールとして尊重し採用します。ただ、時と場合によってはそのルールを逸脱することがあります。むろん、ふだんから逸脱を推薦するものではありません。 詩としての必然性があれば、詩が優先されるのです。俳句は無個性でしかるべきだという意見もあります。五七五という極端に短い詩ですから、そこに個性などを入れるととてもいやらしくなるとというのもわからんではありません。しかし、詩に個性がないというのも不可思議。そこには作者の魂がどこかに込められているからです。 俳句はその意味からも、最低のルールは頭の隅におきながら自由に作られることをおすすめします。 五七五という壺みたいで狭い天地ですが、その中に新しくて自由な酒をそそぎこむのです。それは季題という千年以上も続いている日本の美意識そのものを加味することで、おおきな俳句の宇宙を作り出します。 よく、季語・季題がなければ楽なんだけどねえ。というシロート氏の言い分を聞きますが、それは大いなる間違いです。 狭くて窮屈だからそう仰るのでしょうが、そうではなくて季題を入れることでの言葉を省くことができるのです。後でまた解説しますが、言葉を省略するために季題が必要なのです。それに語らせてしまえばいい。 例えば、さきほどちょっとでましたが「惜春」という季題。それだけで充分に情感がつたわってきます。春が終わりになるころ、その春を惜しむ気持ちです。同時に人と人との関係もすこし移ろう淋しさのようなもの。花が散り、鳥は囀りつつも葉陰へと移る季節。どんどんと日差しが強まると同時にふと思う春への惜別。日本人でないとわからない微妙な季節の神様への恋慕。 どれほどの情報量を持つかしれない季題の力を借りて、他の言葉、とくに説明する言葉を省略してしまわねば俳句は詩として死んでしまう。散文になってしまいかねないということです。 季題を詠い、詠わせて残りを懸命に作る。 それが俳句の醍醐味であります。
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