虚子伝来 |
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vol.10 2008/01/08 | ||||
「虹」 |
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虚子が不惑をおぼえたころ、「なるようにしかならず」というような境地におちいった。 その言葉はおそらく死ぬまで虚子の考えの根幹をなすものだった。 道のべに阿波の遍路の墓あはれ 虚子 虚子が生まれた明治七年、風早郡柳原村西ノ下という土地に住んでいた。武士が帰農せねばならない時勢のことであって、一家はここでなれない農業にたずさわる。 母はつねに過保護なくらい虚子をかわいがった。兄たち三人に囲まれた子供はだれからも大切にされてゆく。それは四国の松山郊外の海の村の人情ともかかわっているからだろう。お遍路さんの行き倒れの墓などは当時いくつか散見されたのだろう。その土壌は哀れなるものへのいつくしみの情である。 「諸法実相」という言葉がある。 仏教用語であって、比叡山延暦寺において虚子が学んだ天台宗などに影響された。それは、存在の真の姿。絶対的真実。すなわち、すべての事物・現象がそのまま真実の姿をあらわしているということ。 「ありのまま」という言葉がそれに想起される。なるようにしかならぬことこそ、ありのままの姿であると。あるいは、ありのままであるからこそ、なるようにしかならぬ姿なのだと。 諸法実相という言葉を引用されたのは、川崎展宏氏が最初であると思う。それは虚子の本質をみごとに射抜いていた。それこそ、「落葉降る下」という虚子の小説における根幹の思想をいいあらわす言葉であったからだ。 虚子には二男六女という多くの子供がいた。しかし、その六番目の六子、通称六は生まれつき身体が虚弱であった。 父虚子は看病をおしまなかったが、三歳になった六を自身の不行き届きで死なせてしまう。責任を感じたはずの父としては大きな悲しみにとらわれるのが尋常であろうが、虚子は六の死をありのままの死としてとらえる。 「唯ありの儘をありの儘として考へる外はない」虚子 という言葉には重いものがある。自覚される無常観がこの作品を書かせたと展宏氏も云う。 すなわちこの子は死ぬべき定めにあるからこそ死なねばならないとした。そのありのままこそ真実の姿。六の存在とは、その死によってしか絶対的真実になりえないのだとした。 それは諦観のようにはみえない。冷たい父の感情であるともみえない。 もっと何か大きな宇宙の中に回転している生物の考えのような気がしてならない。 そして虚子は、そのような考えが悪ければ、社会的・国家的に消え滅びるだろうから、自分は自由に考えよう、自由にやろうとする。それは、山の起伏・水の流れなどを見るように自分を眺めてみようと考えた。 そう、六の死は悲しいというより亡ぶ姿としてとらえたのだった。 別の言葉にするならば、春夏秋冬の木々が若葉し、茂り、紅葉をむかえ、やがて枯れて散ってゆき冬の芽を抱く。そのような季節の変遷こそ、亡ぶ姿であって、生誕のありのままの姿だという。 俳句あるいは文章とはまさにそのようなものとしてとらえた虚子。やがて『虹』という小説が生まれる。 『虹』は『愛居』『音楽は尚ほ続きをり』『小説は尚ほ続きをり』と連作の形をとる。虚子としては写生文のジャンルと言いたいだろう。でも、写生文としては、その山の部分において単なるロマンスと現実を超える美しさがある。 物語は実在の人物による実際の事実を述べたもの。それは虚子の弟子であった俳人森田愛子の生涯、というより死ぬまでのほんの一瞬の物語である。 森田愛子は三国のある銀行の頭取と芸者とのあいだに生まれた娘で、二一歳で結核を発病し、三一歳で死ぬまでほとんど病床にあった。当初、鎌倉七里ヶ浜の病院で療養し、そこで伊藤柏翠と出逢う。 彼は虚子に師事する俳人。天涯孤独の彼もまたそこで結核の療養をしていて、やがて二人は深く愛するようになる。 のちに二人は愛子の母とともに三国へ移り住み、つつましやかな生活を送る。しかしほどなくして、来たるべき離別がやってくる。 この小説は、昭和十八年十一月虚子が娘の立子を伴って、芭蕉二百五十年忌の行事に出るため関西へ向かう途中、三国の愛居(愛子の居)に立ち寄り敦賀に至るまでのことを記した。 愛子はお母さんと柏翠と三人で、私と立子を敦賀まで送ると言った。それに及ばぬ、疲れてゐるであらうから福井で降りて三国へ帰ったほうがよくはないかと言ったのであるが、強ひて敦賀まで送ると言った・略・愛子も柏翠も私たちに別れともないような素振りが見えてゐた。・略・その時ふと見ると丁度三国の方角に虹が立ってゐるのが目にとまった、 「虹が立ってゐる」と私は其方を指さした。愛子も柏翠もお母さんも体をねじ向けて其方を見た。それは極めて鮮明な虹であつた。其の時愛子は独り言のように言った、 「あの虹の橋を渡って鎌倉へ行くことにしませう。今度虹がたつた時に・・・」 「渡っていらつしゃい杖でもついて」 「ええ杖をついて・・・」 愛子は考え深さうに口を噤んだ。・略・ 其後私は小諸に居て、浅間の山かけて素晴らしい虹が立つのを見たことがあつた。私は其には俳句を三つ認めた、 浅間かけて虹のたちたる君知るや 虚子 虹たちて忽ち君の在る如し 虹消えて忽ち君の無き如し 『虹』 この『虹』の小説は、愛子の死がやってくることを予感させながらも、その死は拒否されるように展開し、虚子の俳句もまた生にたいする執着こそある。 愛子の死はこの連作において終結する。『虹』はその前段部分であるが、この虚子の俳句、あるいは柏翠や愛子の母との間の情の交歓によって、ほとんど死にたいする準備がととのってゆくようでもある。 すなわち現実の時間とは別に愛子の死への時間が流れ、虚子はもとより登場人物、あるいは読者さえその覚悟の中の永遠の輪廻の中にすいこまれてゆく。 美しき布団に病みて死ぬ気なく 愛子 昭和二十二年の冬、愛子からの手紙の中にこのような句がしたためられていた。 愛子には死ぬ気はない。 むろんこの美しく若い女性には生の意識が充満していたのだろう。まだまだ愛子は輝くような生に包まれていたはずだ。おそらくこの病気特有のぬけるような白さが透きとおるような生を溢れさせていたはずだ。 がやがて来るべき時がやってくる、そして生死をさまよう病床から虚子に電報が届けられる。 ニジ キエテスデ ニナケレド アルゴ トシ アイコ むろん、それは虚子の三句に答えるもの。愛子は病床でそっとお母さんにつぶやいた俳句なのだろう。まだ、その消えなんとする命の炎はゆらいでいる。 昭和二十二年四月一日午後四時五十分、愛子死す。 柏翠からの手紙であった。そこに愛子の絶句がしたためられていた。 虹の上に立ちて見守るてふことも 愛子 虹の上に立てば小諸も鎌倉も 虚子は小諸にあって、尚疎開生活を続けている。その手紙を受け取った虚子はそれにたいして、普段どおりの平静なる心もちであったという。 その死を特に悲しいとは思わなかったという。それは在るべくして在るもの。来るべくして来るものとして。 虚子とは冷徹で情のない人だと言いたい人が多い。しかし、その情というものは常人と少し異なるのかもしれない。当時七十四歳の老人といってまえばその通りだが、その老人の融通無碍の奥深いところで愛子の魂と繋がっていた。それは柏翠との繋がりとはまた異質のものだった。 つまり、この愛子の最期の句にはしずかに澄んだ実相がある。それは虚子の実相に似ている。一念三千という天台宗の教えである三千世界への入り口に入って行くようだ。 この年の十月に虚子は疎開から鎌倉に帰る。むろん当時の時勢が終戦とその後という変化に伴うこともあったろうが、この愛子の死によってひとつのくぎりがついたようにも思えてならない。 それにしてもなぜ愛子などという名前だったのだろう。むろん本名で実在の人物なのだが、いくらお妾さんの子であったとて、愛子は哀しすぎる。 でも、その愛という名にふさわしい愛を受けた娘より、すこし薄幸な愛を受けた娘にこそ、より一層の美しさを感じる名ではないだろうか。 |
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