虚子伝来 |
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vol.13 2008/04/08 | |||||
「虚子と子規」 |
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正岡子規という人の土壌が、虚子に影響をあたえた。 子規の俳句にたいする考え方は、虚子どころか近代の俳句の根底をなすものであって、そこを通らないと今の俳句や短歌は存在しない。特に、その土壌は子規の四国松山発の資質に負うところが大きい。 当時の時代性というものも大きい。明治維新が過ぎて、数年ほどたった時代。進取の気性とでもいうような血気さかんな若者たちが生まれ、激流の時代の中に放り出された。その者たちは江戸というものをおよそ引きずっていなかった。もっと言えば、親の代から中絶したような社会性を生まれながらに持っていたのかもしれない。 そのような土壌や時代を創り上げた者がかならず先駆者としていたはずである。 たとえば、当時の愛媛県県令の岩村高俊の維新からの教育への関心、もっと言えば藩主の松平家はもともと学問や詩歌の理解者として歴史を刻んできた。当時の当主の久松公もまた常磐会の創設などの育英事業をしてきたことで知られている。 旧制の松山中学の影響も大きかった。 虚子や子規、碧梧桐などが学んだことはよく知られている。その校風は自由闊達であった。校長の草間時福は俳人の草間時彦氏の血縁であったかと思うが、慶応の出身で福沢諭吉の自由思想の影響を受けていた。そのような時代が要請するような学校が存在したことは、彼らにとってどんなに幸福なことだったろう。 松山高校は夏目漱石が赴任したことでもっと有名かもしれない、今の松山東高校である。その気風は伝統として受け告げられていると思う。有数の進学校でありながら、何かせこせこしたところがない。漱石風というか、洒脱というか、真面目で几帳面だけれども大いなる飛翔を予感させる何かがある。 俳句甲子園という高校生たちの俳句全国大会があるが、ここの常勝校のひとつでもある。俳句への情熱も素晴らしいし、優秀でありながら木訥であって果敢である。 ずいぶん松山への賛辞が続いたが、たしかに俳句にとって、特に近代の子規からつらなる俳句の系譜にとってそれ相応の理由があるからだ。 子規の精神性のこともここで触れておかねばならない。 子規はなんとなくおっとりとかまえているような記憶がある人も多いだろう。そのような気風もたしかにあったかもしれぬ。しかし、その晩年の病臥における激烈きわまる精神性が近代俳句を作った。 この激烈さは学校によって育成されるものではないだろう。むしろ先の土壌や時代性が大きい。血統もあろうが、天が何かを理由に誰かにそうさせたということだ。 それを天命というと、ちょっと話がうさんくさくなる。やはり、奇跡としてたまたまそういう人材が輩出されたと考えたい。つまり、その子規と虚子の出逢いの奇跡であることは、漱石との文章にも書いた。 いずれにせよ、精神の激烈さは俳諧から発句を独立させ俳句を造らせた。 「包帯取換ノ際左腸骨辺ノ痛ミ堪へ難ク号泣又号泣困難窮ム」 「此日始メテ腹部の穴ヲ見テ驚ク 穴トイフハ小サキ穴ト思ヒシニガランド也 心持悪クナリテ泣ク」 『仰臥漫録』は子規の最晩年、すなわち明治三十年代の精神を語っているものだが、このバイブルには病臥している病人であるというよりも、恐ろしいほどの時代を回天させる聖人の意志が記録されているといっていい。 俳句以前の話をしている。 俳句と肉体とはかけはなれているように見える。しかし、カリエス性の骨髄炎で膿んでしまって、穴ががらんどうになるまで大きな口を開け、そこから血膿が流れ、癒着した包帯の交換により阿鼻叫喚の叫びが充満している。 肉体が肉体でなく、腐ってゆく肉になってゆく。その穴を見ていると臓物が見え、骨も見えていたのだろう。神経も病むのも当然と思われる状況で泣かぬ者などいない。近親者にあたりちらし、罵詈雑言の中にいぬ者などないだろう。 その身体は何かと取引をしていたように思える。その何かはわからぬが、俳句以前の何かなのである。 「美」を遺そう遺そうとしていた、という説もあるが本当にそのような感覚だったろうか。もっと生きたい生きたいという感覚だったのではないだろうか。 生きて、たくさんの快楽的なことをしたいということではなかったろうか。その為には、俳句はその部分にすぎないことなんだと。 新しい時代を予感して、新しい産業や文化、流行や学問などを貪欲に摂取したかったんじゃないだろうか。自分の身体の穴を見て、もうそこに詰め込むことが出来なくなってしまったと思ったのではないだろうか。 俳句なんかしているべきじゃなかったのかと焦ったのじゃないだろうか。性体験もおそらく無く、恋愛といえるほどのことも無く、若い身体を滅ぼすことにものすごい恐怖するただの若者だったに相違ない。 俳句と肉体とはそれほど乖離しているのだろうか。肉体がなければ俳句は作れない、しかしもし俳句が肉体以前に存在していたらどうなるか。 言葉や文字としてでなく、心や肉体の核の中にすでに存在していたらどうなるか。遺伝子の中に存在していたらどうなるか。 子規の慟哭はそんなことを言っているような気がしてならない。 「美」というのは概念であって、俳句は美のためにあるのじゃない。たとえば藤の花は美のためにあるのじゃない。存在そのものがあるだけで、それに美を感じる人間がある。美は余計なことかもしれない。美さえなければ醜である蠅の存在も楽しかろうに。 子規はそんな意識や肉体がくやしかったのだ。 意識がなくなるのならともかく、恐ろしい苦痛と意識が美を遠ざけてゆく。ならば美なんて不必要なことだ。いまさら美を追究する健常人に嫉妬し、怨嗟を向ける。 あたりまえのことだ。 子規はくやしくて悲しくて号泣した。そして破滅していった。あたりまえのことだ。でも、どういうわけか子規がそれまでやってきた俳句は遺ってしまった。死後の子規はそれをどう思ったか。 喜んだか。喜んだであろう、しかし同時にくやしかったろう。自身の肉体はどうってことなかったから。別にたいした存在じゃなかったから。あるいは意識としての美もまた子規以前に存在していたらしいから。 子規は大志を抱いていた。それはもう間違いのないことだ。三十五歳にしてそれを成就することはむずかしい。仮に明治の偉人はみなそれくらいで成就したとしても子規という青年は青年すぎた。 老成していたはずの時代に子規ほど青年であった人はいない。子規は現代の三十歳くらいの感性を死の直前まで維持していた。 だからくやしかったろう。 俳句もよろしかったが、子規という人に最先端の科学や音楽、絵画やコンピュータをあてがったら、ミケランジェロほどの才能を開花させたはずだ。 それは国家を救う大志であるし、世界へ向けての発信であった。しかし、そのほとんどを俳句というちっぽけな文芸に費やしたことをもっと現代人は発見して感謝しなければならない。 子規という大天才をむけさせた、俳句という発見をそれ以前の出来事として感謝すべきだと思う。そして、その青年の死によって巨大な美意識と取り引きして歴史に遺したことを。 子規とは特攻隊のような人だったのかもしれない。 『俳諧大要』という子規の本がある。 明治二十八年の『日本』に発表されたもの。明治三十二年の『ホトトギス』関連の『俳諧叢書』の第一編「俳諧大要」を入れた。要するに俳句の総括的定義であって、近代俳句のノウハウ本の最初のものである。 「修学第一期、第二期、第三期」というように俳句修学の程度に応じて解説した読み物として読みやすく、今でも手に入る。 その「第一期」の第一項に、 「一、俳句をものにせんと思はば思ふままをものにすべし。功を求むるなかれ、拙を蔽ふなかれ、他人に恥かしがるなかれ。」 と説いている。 俳句を始めるに当たっての訓戒のようなものであるが、とてもいいことを言っている。 それは現代の俳句を始めるに当たっての訓戒として充分に通用する。 もっと自由にやっていいのである。俳句をやるときにすぐに組織にたよったりする前に思うままにやってみろという。そして、この「功」こそが現代俳人の最たる悪癖である。 功名乗り上げ、それを完遂することによってのみ俳壇を制するにあらず。こういうことである。もっと卑近には、先生の顔色を見ての入選ばかりに汲々とならず、もっと自在にやってみたまえということだ。 技量ばかりを追う昨今の風潮にも釘をさす。うまい俳句と佳い俳句はおのづと異なる。だれしもがうまい俳句はそれ自体の価値が減ずるものではないが、佳い俳句ほど今日少ないものはない。 他人に恥ずかしがる小人がふえたからだ。あるいはそのような種族が俳句をやるケースがふえたからだろう。優等生たちの集まりである現俳壇こそが子規のこの大要を学ばねばならない。 つまり、子規という大志からすれば俳句にも大志が必要であると説く。俳句を始めるにあたって小手先の技術や知識ばかりを優先すべきではないと説く。すなわち、現代の俳壇における枝葉末節的な俳人の跋扈と衰退をこのときにすでに予兆し憂いているといっていい。 「第一期」の中に興味深い項目がある。 「一、月並調に学ぶ人は多く初めより功者を求め婉曲を主とす。宗匠また此方より導く故に終に小細工に落ちて活眼を開く時なし。初心の句は独活の大木の如きを貴ぶ。独活は庭木にもならずとて宗匠たちは無理にひねくりたる松などを好めり。尤も箱庭の中にて俳句をものせんとならばそれにても好し、しかり、宗匠の俳句は箱庭的なり。しかし俳句界はかかる窮屈なるものに非ず。」 独活の大木のような俳句が好いと言っているのである。 初心の者の句とかぎらず、熟練者の俳句においてもこれらの訓戒は身にしみるものであろう。箱庭的な俳句に汲々としている昨今の俳句作りはこの指摘を重く受け取るべきだろう。 さて、やっとここにきて虚子が登場する。 虚子のいう、好い俳句とはそれならば何と言っていたのだろう。 明治三十六年十月の『ホトトギス』の「現今の俳句界」という文章の中で触れられている。 「今の俳壇に欠くる所は、てかてか、なまなまの類が多くて底光りの少ない事である。碧梧桐の如きは固よりよく此の間の消息を解してゐるが往々にして又失敗の作が無いともいへぬ。・・略・・直碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて渇望に堪へない句は、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーッとした句、ヌーッとした句、ふぬけた句、まぬけた句等。」 碧梧桐との「温泉百句論争」における、自分の意見を付け足したものとして注目される。明治二十八年においての子規の考えとかなり共通するところがわかると思う。 碧梧桐と宗匠とをここで比較対照にするのは気の毒なかんじがするが、その部分を読み替えてみれば、およそ子規と虚子の言い分に濃厚な共通項が見られよう。 「独活の大木のような俳句」こそが、「単純なる事棒の如き句」であり、「てかてか、なまなまの類が多くて底光りの少ない事」とは「宗匠たちは無理にひねくりたる松などを好めり」に関連するのではなかろうか。 ともに技巧に偏し、箱庭的に矮小化する俳句にたいする攻撃とみてよい。 もっともそれぞれが明治三十年前後であり、初心者などにたいする意見が主なるものであったとしても、それから百数十年たつた現代の俳句への影響力はまだまだ強いものがある。 ところで虚子の、 去年今年貫く棒の如きもの 虚子 ここにも「棒の如き」が出てくる。これは昭和二十五年の句だから、これらの文章からは半世紀が経ってからのものだ。 この棒は何の棒なのかというと、おそらく俳句の骨格である独活の大木のような棒とはすこし異なる棒だろう。 ただ、虚子は人生もまた単純なること棒の如きものだと考えていたかもしれぬ。むろんそれが平坦なる人生という意味ではなくて、時空がどのようにねじれようとも、先の大戦が介在しようとも、死すまでとは一本の棒のようなものだと考えるのは天地有情の仏教観を持つ者が考えてもおかしくはない。 俳句も棒であれば人生も棒、子規の人生も短い棒であったのであろう。 子規の棒は一瞬を駆け抜けたオリンピック選手の短距離走であった。虚子の棒は42.195キロを駆けてゆくマラソン選手の棒。 子規の欲望イコール美とはとりたくないが、この短距離走の美学ということならばよくわかる。一瞬の爆発はビッグバンであって、超新星はその輝きをその者だけに与える。だから子規は美しい。 虚子が老醜だとは言わないにせよ、夭逝した者はみな美しい。そして何より、子規にはもって生まれたセンスがそこにあった。 もっとも子規という人は、なにもこのような哲学を俳句などだけに限定していたのではないだろう。短歌などはむろん絵画やその他芸術全般の考えにもとづいている。そして、それは何故なのかというならば、先の話に戻る松山の奇跡なのである。その誕生から交友に至る歴史の奇跡がそうさせた。 藩主や県令、日本全体を巻き込んだ維新後の自由思想のこの動きは俳諧のみならず、あらゆる若者たちの原点であった。 「一、文学に通暁し美術に通暁す、いまだ以て足れりとすべからず。」 「一、極美の文学を作りていまだ足れりとすべからず、極美の文学を作るますます多からんことを欲す」 「一、一俳句のみ力を用うること此の如くならば則ち俳句あり、俳句あり則ち日本文学あり」 子規は俳句は文学の一部で、文学は美術の一部であるとした。すなわち、美の標準は文学の標準で俳句の標準であるとした。絵画や彫刻、音楽や演劇、詩歌小説もみな同一の標準をもって論評できるとした。 ここで、現代の俳人たちに問いたい。 現代のすべての美術・芸術がこのような統一性にあるのかは議論をまたねばならないだろう。ただし、俳句という世界がこれらの全てに繋がっていることは現代でも明白である。 俳句だけが別次元に存在することはありえないからである。 花鳥諷詠や不易流行の論を俳句世界独自のもののようにとらえるとはたしてどうであろう。子規のいう極美の文学をせまく狭隘に解釈するならば、他の文学はそこに必要なくなる。漱石も鴎外も必要なくなる。 すなわち松山の歴史的奇跡なども必要なくなる。 虚子と子規がもっとも怖れていたことは、そうなってゆく俳壇の未来ではなかったろうか。
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