虚子伝来 |
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vol.19【最終回】 2008/10/09 | ||||
「未来へ」 |
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いよいよ最後のクライマックスです。 俳句というものを、今まで近代の歴史をふまえてその発展の様子をかいま見てきました。 特に明治以降の俳句という名称になった時点からの発句は、百花繚乱の様相を呈してきたといえます。 しかし、現代においては、その普及・流行のわりには作品として歴史に残るであろうものは少なく小粒になってきたといえるでしょう。 その一つの要因は俳句の流派のせめぎあいによる対立、あるいは流派の中の派閥による対立です。それによって、俳句をとても狭い範囲でしか認知しないようになってきたのです。 吾が伝統派もその例に漏れず、とくに師の教えをいかに忠実に守るかという観点で俳句を発展させてきました。 むしろ虚子の教えから出発するのではなく、その後の先生からの出発、あるいは地域ごとの先生からの出発によって作品傾向が限定されたといえるでしょう。 では、私たちはこれから俳句をどうしたらよいのでしょうか。 ここに組織論はあまり持ってきたくはありませんが、重要なのは俳句は一人で作るということです。幾人かのグループで俳句会のようなものをやるとしても、所詮俳句は一人だけのものだと。 流派や派閥の興亡に一喜一憂するほどくだらないことはないのです。結社や団体などは一種の必要悪くらいの気持ちでいるべきです。 俳句を作る俳人は孤独であるべきです。俳人同士で群れることもよくない。正直なところこの群れることは、もともとプロフェッショナリズムに欠ける俳句作家たちの才能をよけいに曖昧模糊としてしまいます。 俳句で専門作家になるということでなく、俳句という遊戯を中途半端なものにしないためにも、孤独と向き合い、五七五と向き合い、人や自然と向き合うべきです。 それから、俳句をするには、もっと日本のことを考えるべきでしょう。今日は先生に入選するかを心配するのも結構ですが、もっと日本の真実の美を考えるべきです。 ともすると俳句の運動の中で環境問題や政治問題、社会問題を織り込むようになりますが、そういう意味の日本への憂慮ではない。 特に環境問題を俳句や俳人が解決するなんてことは考えないほうがいいと思います。それは個々人や所属する組織のこと、俳句という文芸には何の力も無いのです。 そこを肥大してゆくと、21世紀22世紀のもっとも月並で陳腐な文芸になることでしょう。 そう、俳句が一番腐敗する原因となるのは、その偽善性であります。俳句にもっとも必要なのは、日本的な純粋性であります。 俳句が日本を救うなどはよもや考えないほうがいい。地球規模の環境クライシスを俳句が変えられるわけがない。それを憂慮することは当然ですが、俳句はひたすらに日本と日本人がまだ美しくいられるかを五七五の中だけで考えればよろしいのです。 もう一つ、やはり俳句を老人たちの趣味から、若者へ取り返さなくてはなりません。しかし、誤解の無いように申しますが、これは肉体年齢のことをいっているのではありません。その精神の中に滾つ燃えるものがあってほしいということ。燃えるでも萌えるでも結構ですから、老いさらばえてゆく精神を今一度取り戻すための俳句であってほしい。 仮に、老境の止水明鏡の境地であっても、その余韻としての裏側にある明治の残滓のようなものが欲しいのです。 ただ、余生のための俳句ではなくて、どうせ死ぬ運命ならば冥土の土産、ひいては輪廻転生の次回のための準備であってほしいのです。 三島由紀夫の作品でいえば、俳句こそ、その集大成で輪廻転生の極美を語る、日本美意識の結晶である『豊穣の海』の全巻、それこそが自身の俳句の一作品であるくらいの気概が欲しいのです。 しかし、俳句とは単なる遊びです。 学問でもキャリアでもありません。そういいますと、今まで言ってきたことと矛盾するようですがそうではありません。 遊びであるからこそ、厳しく流行を越えていただきたい。だからこそ楽しいのです。そこにある能動的な楽しさを追求すべきです。 楽しくなければ俳句じゃありません。先生に萎縮していたらお辞めなさい。俳句の友達がいやなら別のところに行きなさい。そして、孤独でひとり悩みなさい。そして、良い作品に出会えたら快感に打ち震えなさい。 俳句は日本が世界に誇るもっとも単純かつ深遠なお遊びなのです。 五歳の幼児から九十五歳の長老まで、なんの差別もありません。学歴や経歴などない方がよいくらいです。ガッテンの人にはガッテンの、病気がちな人には病気がちの、チンピラにはチンピラの俳句があります。 先日、俳優が覚醒剤と麻薬の所持によって逮捕されました。本人の俳優としての才能、意志の弱さと、社会性の甘さが如実に出た事件でした。 また、その後には女優が自殺しました。インターネットへの中傷と、自身の仕事への不満、将来への不安などが原因でした。 作家も詩人も漫画家も自殺しました。サラリーマンや警察官や自衛官、政治家やスポーツ選手までも自殺しています。子供や学生すらも・・・・ それらの出来事が社会的にすべて赦され、あるいは同情され理解されるものではありません。まして、そのような不幸を賞賛するものでもありません。 しかし、現今の俳人はめったに自殺したり、薬物中毒になったりはしません。暴力や異性がらみの醜聞すら皆無です。 人生の余録ていどの悩みと快楽とを俳句と共有しているからです。 それだけ、分身であるはずの俳句作品に遊び、悩み、のめりこんでいないのです。それが引き金で人生を台無しにするほどのこともない。 昨今の俳人とはそういう人種です。無論、なにも犯罪を犯せ、自殺せよといっているのではありません。人生を台無しにしろともいっていない。 そのくらいの不幸な快楽を、いや激烈なのめり込み方を俳句の人生で選択した人が皆無に近いという現実です。 俳句は単なる遊びです。単なる趣味です。ちゃらけた知的ゲームでもあります。有閑マダムの時間つぶしでしょう。あの世までの慰撫かもしれません。 むろんすべての俳人に苦しみを要求するものではない。ほとんどすべての人は、のんびりと俳句の遊びをしていてください。 しかしです。 それと同時に、俳句はその他の藝術、文学、ビジュアル、音楽、絵画、あるいは単なる遊びやゲームと同格がそれ以上であるべきです。そのためには、もっとももっとのめり込まなくてはいけません。 少なくとも、専門・職業俳人は、俳優や画家、警官やサラリーマン以上にその職に、才能に態度に真摯に悩まねばなりません。生命を賭けなければなりません。 それがあまりにも無いということが純粋にくやしいのです。 これからは、一握りの人でもよいから、俳人の中からそのような指導者が出ねば、おそらく俳句はあと五十年の命でしょう。 「近代俳句概論」 ここで、ちょっと振り返りまして、いままでの近代俳句のおさらいと反省をしてみたいと思います。 俳句は定型の詩として五七五の音からスタートし、季節の詞から派生した季語・季題をそこに入れるということは、かつて申しました。 そして、虚子はただそれだけでなく、そこに物を写生するという概念と、季題そのものを諷詠するという、すなわち花鳥風月を諷詠するという概念を植え付けました。 したがって、明治以降の俳句はその形而下的なる写実主義からスタートし、いくつもの流派に枝分かれしてゆくことになります。 ある者は、主観的写生に、ある者は抽象的に、超現実的に、あるいは定型を崩し、自由律へ走り、季節の詞や季題・季語を捨て、というふうに分化し発展してきたわけであります。 ○新興俳句・社会性俳句 しんしんと肺碧きまで海の旅 篠原鳳昨 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 金子兜太 大正以降、昭和にかけてはこのような名称の俳句が脚光を浴びます。 篠原作品は五七五の定型は守っています。しかし、季題はありません。彼は鹿児島の出身で宮古島へ赴任しました。そのころの作品と思われます。 この感性は、季題を必要としなかったのでしょう。「しんしん」「肺碧き」という言葉によってその多くの部分を代用させていた。瑞々しい新興勢力の旗手として、それまでの伝統的でやぼったい俳句といっせんを画したのです。 子規や虚子のラインは、どこか大人の分別くさいラインであつたことは事実です。そこに師弟も大御所となってゆくことで、俳句伝統の骨格や傾向も確立しつつあり、良い作品とそうでない作品の規定も、いはば虚子という巨大な貘のような人が司っていたからです。 でも、青年の志を持つ若者たちが独自に俳句を目指すにはそのようなハードルを跳び越えなくてはなりません。 それは俳句以前の話であって、当時のあらゆる文芸・絵画・音曲などにも共通した時代でした。いわば、激動の日本の爛熟する勝負どころだからです。 歴史的には少し後になりますが、金子作品が出没します。 戦後というものの敗戦の後遺症と、その後の高度成長の気分が充満した佳句と言えます。 ここにある社会性とは、アンチ伝統俳句であり、アンチ資本主義国家でもあります。しかし、そこにある気分は俳句を革新し、次の世代に引き継いでやろうという気合いがありました。 それもまた、俳句を賞賛した賛歌であることにかわりはありません。それまでの、レールから逸脱する、青年の思いがひしひしと伝わってくるからです。 ここにある態度というものが重要です。 それは生活態度や政治信条あるいは人生教訓というものではありません。主観ということです。これらの作品に共感するか否かは別として、ここにある大きなものが主観です。つまり、作者が生きて考えているという主観です。 あらゆる文芸・藝術に主観を取り除くと何も残りません。人間は心で考えるから主観が動くのです。俳句も然り。主観が無くなると俳人ならぬ廃人同然です。 ○虚子回帰論 しかしです。 この新興俳句や社会性俳句の登場は、すべての人たち、俳人たちが同じレベルで実践できるものではなかったのです。 そこには才能が必要でありました。 天才であるほど特殊な才能ということもないのですが、五七五と季題を入れればとりあえず俳句になるという、超スタンダードな指向とは少しく異なります。 徒歩から自転車に、自転車から自動車に。ここまでであれば多数の大人はついてこれますね。しかし、自動車から飛行機、飛行機からロケットとなると通過者はほとんど居なくなります。 それほど金子氏が素晴らしいと称揚するのもなんですが、そこにはふるい分けられた人だけが持つ優越感の世界となります。 俳句の大衆化とは逆行するベクトルです。 この優越感というものはたいへん曲者です。極論をすれば、俳句は優越感と権威がもっとも大きな落とし穴であるといっていいのです。 ○新興・社会性の俳句・・・・・優越感と偽善による権威 ○伝統の俳句・・・・・・・・・歴史と偽善による権威 ともにそれぞれの欠点があるように見えます。 共通するのは偽善です。さきほどもいいましたが、偽善は俳句作品の本質からはずし、口当たりの良い、あるいは倫理的に物わかりのよい方向に進めます。 ならば、短詩でけっこうで俳句である必要がなくなるのです。しかも、短詩もハーレクィーロマンスのような甘さと、似非シュールレアリスムの臭さで彩られています。 それらの落とし穴を脱皮しようとしたのが、虚子への回帰現象といっていいでしょう。怪奇現象ではありませんよ。 そのために今一度、子規以降のおさらいをいたします。 ●俳句19世紀から20世紀へ 写生派の子規は道灌山において、虚子にその伝統的な俳句を継承してもらいたく、掛け合ったが断られる。 『子規居士と余』という虚子の著書によると、彼はいまひとつだったようである。すなわち、虚子は俳句を専門とする志も気概もなかったといっていい。 子規との出会い・子規の葛藤・子規の死というその後の展開が、虚子すなわち20世紀、と子規すなわち19世紀の俳人との接点になつていきます。 この1世紀の継承がいかに歴史として重要であったかということです。 そして、虚子はその後に虚子山脈ともよばれるような師弟と組織あるいは結社を築き上げてゆくことは周知の事実です。 もちろん、それが全てではなく、新傾向・新興・自由律・社会性などのさまざまな俳句が出ては消えまた生まれを繰り返しました。 それが大正から昭和への俳壇の道筋であったのでです。 しかし、20世紀も後半になってまいりますと、伝統派にも季題趣味といわれるような現象が出てきます。季題に拘泥するのあまり、その論議ばかりで作品に本当の虚子のような花鳥諷詠の神髄が見られなくなったという論です。 たしかに、当時 桐一葉日当りながら落ちにけり 高濱虚子 のような句。まさに、俳句は詩・叙事詩・叙景詩・花鳥諷詠詩であり、すべては季題諷詠の結果であるとした句はなかなか出てきません。 伝統は古きものに常に新しい酒をつぐ。つまり虚子の謂う「古壺新酒」の実践がされなくなったのかもしれません。 せっかく19世紀から20世紀に継承したのに、あるいは俳壇としての虚子の役割が自由律などのベクトルから伝統派へ定着する方向にあったのに、その弟子たちが空虚な伝統に凭りかかるだけの行為に走ったと批判もされました。 芭蕉の時代もそうでした。 芭蕉の死後、その側近たちは芭蕉のいわゆる形式を美としました。芭蕉の神髄や哲学を理解するのでなく、その形式的なアウトラインを真似たのです。特にいわゆる蕉門十哲の存在以降はそれらによって堕落、腐敗していきます。 天明期になり蕪村たちにより、芭蕉回帰運動がはじまり、芭蕉俳諧の模索の成果があらわれたと思われます。 ●俳句20世紀から21世紀へ それと似たような現象が昭和俳壇後期の虚子回帰の現象だと考えられます。その現象は今も続いていますが、特に重要なのは、いわゆる伝統派の中からそれが起こったのではなく、アンチ虚子と思われる俳人たちからその再認識のムーブメントが起こったということでしょう。 爛々と昼の星見え菌生え 昭和二十一年 虚子一人銀河と共に西へ行く 昭和二十四年 去年今年貫く棒の如きもの 昭和二十五年 明易や花鳥諷詠南無阿弥陀 昭和二十九年 星一つ命燃えつつ流れけり 昭和三十年 昼寝する我と逆さに蠅叩 昭和三十二年 たらたらとあとしざりつつ春の空 昭和三十三年 幹にちよと花簪のやうな花 昭和三十四年 これらは虚子晩年の作品ですが、回帰とはこれらの俳句に戻るということなのでしょうか。 その答えは是でもあり非でもあります。 本当はそこのところを虚子や子規に判断してもらいたいのですが。おそらくは自身に戻れとはいわないでしょう。たしかに、虚子はかつて自分の死後百年のうちには俳句は元の月並に戻るであろう、と予言していました。 その元の月並とは、おそらく昭和後期の俳壇作品、あるいは子規以前の俳諧作品を視点においていると思います。 しかし、もしこの虚子回帰が多数の流派によって実践されたならば、この予言を覆すことができるかもしれません。 特に、伝統派はその意味でイニシアティブをとらねばならないし、形骸的な伝統を継承して、芭蕉の時代の過ちを繰り返すことのないよう、自らを律しなければならないでしょう。 その意味でも、これからの平成俳壇は1世紀ぶりの、もっといえば千年、十世紀のミレニアムの改革期としての岐路に立たされているのです。 「現代の俳句の諸問題」 このように俳句は現代の平成の時代になって、おおきな分水嶺を通過しようとしています。 厳密にいうならば、現代の俳句とは昭和の戦後俳句以降のものと考えられます。その後の平成になっても戦後派の俳人たちがおおよその主導権を握っているのです。 年齢的には、現在六十代、七十代、八十代の俳人がイニシアティブをとっています。その俳句はいわばマンモスの化石のようなもの。 それらは流派を越えて、技術を越えてすべての俳人のDNAにすり込まれてしまっています。それらをそろそろ脱皮する時代がやってきました。 特に「説明」「叙情」などによる俳句作法こそ先代が築いてきたもっとも醜悪な俳句遺産であるといえます。 これは、先の「権威」「優越」「偽善」などにかかわる俳句の一大問題であり、いまの俳人は優等生しか生き残れなくなってしまった。 おそらく、過去の歴史を見てももっとも遊べなくなった俳句ジェネレーションではなかろうかと。そこにある創作の自由などがテロリズムのように吹き飛んでしまったのであります。 ここで、典型的な俳句をいくつか。 善悪で俳句を計るということではありませんが、おそらくこの手の俳句を今後継承していったら、将来的に「えらい」ことになるぞと思われる作品の凡例です。(よくある凡例を基にした架空の句です) 高々と空吹き上げて秋の風 説明 芽力といふ漲れるもの梅に 理屈・説明 これらはいわゆる「説明」俳句の範疇にはいるものです。原因と結果を明確にし、そこに説明や理屈をつけて、いろいろな角度に表現して新鮮に見せるという手法です。 「高い」「上げる」「力」「といふ」「もの」「漲る」などの多くの修飾語・動詞などを使って設計されています。 過去にもあまりにも多くの作例があるので、すべてを悪い俳句とはいえません。しかし、この手口というものが俳句の陳腐化につながり、流派などの型としての流行を産みます。したがって虚子の謂う「月並」の範疇ともとらえられます。 かなり句歴のある人に見られやすい方法で、俳句会などでも比較的高得点であったりします。しかし、結局はどの分野にも見られるように類想の山に埋没してゆくことになります。 句の道といふ志今日の月 教訓・道徳 人の情小春のごとく包まるる 倫理・安易な叙情 健康の受けとめてゐる大暑かな 教訓・分別臭 蝉鳴くやこの世に命ある限り 教訓・低劣な擬人法 毛糸もて夕日をほのと編みこみぬ 安易な叙情 これらは、一見叙情に溢れて美しい調べとともにキレイにまとめるという特徴があります。この「キレイ」は陳腐化し偽善にも通じていきましょう。 またもっとも怖ろしいのは、この手口によって季語・季題の力を奪い去ってしまうのです。ここにある、倫理観・教訓・分別・安易な叙情などは俳句本来のもつ本意・本情を奪ってしまいます。 口当たりが良いので女性に多く好まれますが、近年俳人の男性の女性化によりジェンダーを越えて支持されています。 虚子的にいえば「機知」俳句といえましょう。 しかし、この機知という頓知やウィットは頭の回転が速い人でないとできません。牛のように鈍重で小回りのきかない人には無理な芸当です。 頭でぐるぐると口当たりのいい言葉を駆使して作句しますから、必然的に作為的です。師匠の選句傾向を見つめながらとなりますので、流行を作りやはり多くの類想を産みだします。 この手の俳句こそもっとも未来を危惧させる作品ではないでしょうか。 これらの「えらい」作品を藤田湘子氏は俗悪な浪花節的人情とかつて形容されていました。かなりラディカルな表現なので、あまりにたまげてしまい呵々大笑してしまいました。 しかし、この指摘は重要です。 俳句作品の中にこのような理屈や道徳観やあやまった美意識を持ち込むなということなのです。安易な叙情なのか、誤った美なのかは人によって価値観が異なるからそれは自由ではないかという人もいらっしゃるでしょう。 それは違います。 そのために俳句があって、季語・季題の持つ本来の情というものがあるのです、そのために俳句は物を即して描写しその本情を諷詠する。短歌はそのために恋の座を諷詠する。川柳も恋や上質の機知を諷詠する。 それらが日本の短詩型文学の究極の目標なのです。 ○平成の名句 では、ここで虚子など以外の近年の名句と呼ばれるものを見てみましょう。 むろん、流派は問いません。昭和から平成にかけて生き残ってきた俳人とその作品は、はたして今までお話してきた「えらい」俳句とどのように違うのでしょうか。 みづから遺る石斧石鏃しだらでん 三橋敏雄 蚯蚓鳴く路地を死ぬまで去る気なし 鈴木真砂女 はんざきの傷くれなゐにひらく夜 飯島晴子 落鮎の落ちゆく先に都あり 鈴木鷹夫 大昼寝無一物にて無尽蔵 加藤武城 草あれば草の音して木の実降る 藤崎久を 花野行き行きて老いにし童かな 森澄雄 これらの句をひとつひとつ句評するには、二百頁は要することでしょう。はたして、虚子回帰なる要素があるかもわかりません。 そこで、注目したいのは、個々の俳人が己の美意識をおそらくは季節の詞、そう和歌の時代からあったその季題になる前の詞・言葉にぶつけているということです。 ここに、偽善も権威もない。安い叙情も余分な道徳観もない。 余計な理屈と説明、計画性のある受けもない。 ましてや教訓や倫理観の押しつけなどこれっぽっちもないのです。 名句とはこのように、孤独で、普遍的。そして、きれいごとではなくて美意識の塊であるということです。 「そして未来へ」 ○尾崎放哉また登場 前にも自由律のところで申しました。平成からは遠い時代に生きて死んだ俳人。俳人というより尾崎放哉という魂。 それはつぎのようにくくれると思います。 1彼は常に、「妙法蓮華経観世音菩薩普問品」を唱えた。おおきな宇宙観と小さな人間が観世音菩薩への信仰により救われるかという教えを詩に。放哉の詩であり放哉しかできない、衆生を救う詩。 2放哉の放浪と隠遁の根底にあるものは、よくいえば青春性にある。「やさしさ」、これが放哉の美意識のヒント。アナーキーに彩られた裏面のやさしさ。まったく無用なやさしさ。 今までの俳人とはまったく別の観点から見てみました。 まつたく俳人論ではくくれません。詩人でしょうか。大道芸人かヒッピーかテロリストでしょうか。 無用な人のように思えます。そして、とても弱い人のようです。 そこで「そして未来」へ続く俳句のヒントは、彼のような意味のない無価値さにあるのではないかと、考えたとき・・・・ 虚子との大きな共通点も見えてきました。 ではここで、放哉の詩を時系列的にみてみましょう。 ○有季定型時代の俳句(明治33年〜大正3年) ふらここや人去つて鶴歩みよる 放哉 ○自由律時代の俳句(大正4年〜) 一日物云はず蝶の影さす 蟻が出ぬようになった蟻の穴 打ちそこねた釘が首を曲げた 心まとめる鉛筆とがらす 淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る 足のうら洗へば白くなる せきをしてもひとり 肉がやせて来る太い骨である 明日は元日が来る仏とわたくし 春の山のうしろから烟が出だした 墓のうらに廻る 「 無意味で無価値のような詩の羅列 しかし、その虚空の部分にはてしなく大きな情のようなものがあります。しかし、生や死の概念がつねにつきまとっています。怖いのでしょう。救われたいのです。 意味よりも無限を求めている。 彼にとって、季の詞などは区別しません、その他のものや言葉すべてが季なのです。生き物なのです。墓もまた無限の生き物。 だから生きる意味を追う必要がない。すべての物に情を託しているから 山水草木。禽獣虫魚。日月星辰すべてに。無情のものも有情のものとして それを諷詠すること則ち、 花鳥諷詠。」 「無意味則ち虚、虚則ち無限、無限もまた有情、それを諷詠する則ち花鳥諷詠」 ○虚子の謂う「欲する句」 ここにきて、虚子回帰の中で重要な俳論を思い出しました。 それは、明治のころですが、当時の俳壇にたいして渇を入れた言葉。そのころにも俳句の停滞があった。 当時の新傾向俳句にたいするアンチテーゼですが、当時、河東碧梧桐らの前衛ながらも意味を追いすぎる機知に反抗した内容でした。 まだ、虚子の花鳥諷詠の論(昭和2年)が構築される二十五年ほども前の言葉です。 「欲する句とは」 「単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーッとした句、ヌーッとした句、ふぬけた句、まぬけた句」 (ホトトギス明治36年) ごきげんなフレーズですね。 そこで、敢えてそれぞれに虚子の句と放哉の句をあてがってみたならば。 ○ぼーっとした句 映画出て火事のポスター見て立てり 虚子 川を見るバナナの皮は手より落ち せきをしてもひとり 放哉 ○ぬーっとした句 一片の落花見送る静かな 虚子 白牡丹といふといへども紅ほのか 墓のうらに廻る 放哉 一日物云はず蝶の影さす ○ふぬけた句 蠅叩手に持ち我に大志なし 虚子 足のうら洗へば白くなる 放哉 淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る ○まぬけた句 手で顔を撫づれば鼻の冷たさよ 虚子 打ちそこねた釘が首を曲げた 放哉 はたしてこれらの分類が適材適所かは不安のあるところだがいかがなものか。虚子と放哉のおおまかな作品を羅列したことで、意味そのものを超越した双方の虚無さというか、巨大さが見えてはこないでしょうか。 そして、ここにこそこれからの俳句の未来への大きなヒントが隠されているのではないでしょうか。 そうです、虚子回帰とは、虚子怪奇への回帰であったのです。 「俳を志す皆の者、よく聞け。虚子回帰をして、21世紀の俳壇の祖となられよ。儂の信ずるばかりの傾向では無き、およそかけはなれたところの才能が、次の時代の祖となっても結構だ。およそ、俳句というものが無くなる前に・・・」 虚子・2008 【おまけ】 「俳人が自殺しないわけ」 ●快楽脳内物質ドーパミン 先に、俳人という者たちが他の藝術や仕事の人たちと比べてのんのんと生きていることの憤慨をいたしましたが、その否定的な側面ばかりでなく肯定的な側面も追跡しなければいけません。 俳句という短詩型が世界一短いものであるということです。 この短詩は、瞬時にして完結します。そのために次のストーリーを考える必要がない。ここは、他の文章あるいは藝術と違うところ。 必ず完結したラストが来る。その切れ味というものが、いわゆる文字のスポーツのような影響をもたらす。 結果として、脳内物質のドーパミンが多量に出て、脳内変化、すなわち感情において快感をもたらします。 これが、鬱屈した精神状態を解放させる大きな要素です。 他のあらゆる事象の、とくに創造性に関するものはすべて一作品において継続と忍耐を要します。それに対して、俳句は連歌とも異なり、その一瞬における輝きにおいての忍耐を要する瞬発力の文芸です。 ここがスポーツ的であり、岡本太郎氏の謂う爆発的な発露であります。放哉の特徴の2の「青年性」もまたここに起因しているものと思われます。 さらに重要なことに、そのテーマである、季語・季題を諷詠すること。それ則ち、虚子の謂う「客観写生の理論」そのものです。 つまり、究極的にはその季題に作者自身が入り込み、それと同体一心となり作句する。 その時には、俳人の脳は無我の境地になり、作者はここで消えているのです。 それが、いわゆる極楽の文学といわれる理由の一つなのです。どのような、程度の人でも、一度でもこの境地に達するならば、その者にとっての快感が忘れられないのであります。 このような科学的な根拠を含めて、世間で俳人が長寿番付のトップを占めるのも故なきことではないのでありました。 最後に、その根拠たる虚子の「客観写生論」の概要を復習のため掲載申し上げます。 「主観と客観」 主観・・・「一念三千」天台宗の真理。日常の一瞬の心の中に三千世界、つまり森羅万象・宇宙存在のすべてが含まれるという考え。 客観・・・事物のありのままの姿。宇宙間のあらゆる事物の存在がそのまま真実の姿であること。 以上をふまえて、俳句の初学時代から次のような変遷を経て写生の極意へと導かれる。 その1 ○説明客観写生時代 対象物を写し取る。心には関係なく花や鳥を向こうに置いてそれを写し取るだけ。 その2 ○主観写生時代 心が動くままに対象物も感じ、自由に色や形を動かすことができる。作者の心を写すことになる。 その3 ○客観描写時代・純客観写生時代 花や鳥を描くのだが、作者自身を描くのである。主観・客観・肉体の包含の時代。飛躍 により新しい天地・宇宙がひらける。つまりそれはぐるりと回って純粋客観写生へと落ち着く。 |
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