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第51回 2012/6/08あ | |||
《原句》① 手に掬う水やわらかし残る鴨 前年の秋に飛来した鴨が晩春になってもまだ居残っているのを、〈残る鴨〉〈春の鴨〉といいます。 夏の季語として〈通し鴨〉がありますが、これは稀に一部の鴨が帰らずに残って営巣・繁殖するもので、上高地・尾瀬・奥日光の湯ノ湖などで見られるそうです。留鳥である軽鴨は〈通し鴨〉とはいいません。 原句の「水やわらかし」(歴史的仮名遣いでは「やはらかし」と表記)の感覚は、残る鴨の風情に触発されての把握だったと思うのですが、作品の上では作者の動作からの帰結として表現されています。つまり、水を掬っている作者がいて、鴨はそれとは無関係な取り合わせになっている訳です。これではせっかくの「残る鴨」が生かされません。水の感触もたまたまそう感じたというだけのことになってしまいます。 この句の推敲には二つの方向がありそうです。上五中七を残して、もっとふさわしい季語を工夫するか、もしくは作者の姿を消して中七の感覚と「残る鴨」を緊密に結びつけるか、です。前者なら、 手に掬ふ水やはらかし花曇 手に掬ふ水やはらかき朧かな などと考えられますが、さして見るべきところはありません。むしろ後者をとって、 《添削》 残る鴨夕べの水のやはらかき としてみました。「残る鴨」に焦点を当てて状景を描写するかたちです。水をやわらかいとした感性も無理なく収まるのではないでしょうか。 ![]() 《原句》② 眠る母初ほほべにの花の色 同時出句にお母様の死を詠まれた数句がありますので、掲出句も命終の間際か直後のことと推察します。家庭を守り、子供を育て、おそらくお化粧などもあまりなさらず家事にいそしんできた方ではなかったでしょうか。その最期の時に、母上にとって初めてだったかもしれない頬紅をつけてさしあげた、という句意かと想像します。 状況がはっきり伝わるように整えてみましょう。さらに、この句では「花」の語が使われてはいますけれど、ここでは頬紅が「花の色」のようだという比喩になっていますから、季語の働きを持ってはいません。明確な季語を入れて、作者の心情が託されるように表現したいのですが、では、 《添削》 逝く母に紅さしやりし花の冷え 桜の季節に亡くなられたことに深い思いがおありでしょう。たとえ天寿を全うされたにしても遺された家族には淋しさが残るはずです。それを〈花冷え〉の語に代弁させました。華やかな中に哀しさを含む季語です。 〈さしやりし〉は〈つけてあげた〉の意。漢字で書けば〈点し遣りし〉となりますが、〈 ![]() 《原句》③ 海光や卯月明りの車輪梅 「車輪梅」はシャリンバイと読みます。一見、輪生状に見える葉の形と、梅を思わせる花であることからの呼び名です。四月から六月頃、枝先に白い花がかたまって咲き、葉には光沢があります。海岸付近に生える常緑低木ですから、原句はこの花の咲いている辺りの風光を正しく伝えています。 一読、植物名がありながら「卯月」の語が入るのは〈季重なり〉と思いますが、実はこの〈車輪梅〉、歳時記の項目に立てられていないのです。もしかすると地方別歳時記などには載っているかもしれませんが、一般的な歳時記にはありませんでした。作者はそれを考慮して「卯月」を加えたのでしょう。 歳時記の季語は、詩歌の歴史の中で詠まれてきた言葉が広く認められて詩語として定着したものですから、作品が無ければ項目に立てられることはなかったのです。現在は季の詞に対する考え方がかなり緩やかになって、明らかに季節さえ分かれば季語として使うという方向も出てきています。ただ、本来はあくまで詩語としての豊かな連想作用を伴う言葉こそ季題・季語として大事にしたいという基本を忘れるべきではないでしょう。 その上で、新しい季語の開拓もあるべきかと思います。それには秀れた作品を多く生むこと、そして時間をかけて定着するのを待つという手順が必要と考えます。たとえば〈万緑〉の季語が、中村草田男の 万緑の中や吾子の歯生えそむる によって認められていったように。 そこで原句、まず「海光」と「明り」は意味が重なります。どちらかを外すべきですが、「海光」の鮮明な印象を生かしましょう。 次に「卯月」、これは陰暦四月の異称。陽暦では五月です。単に季節を示すだけでなく卯の花の咲く月との意を表しますから、付随するイメージが多くなってうるさい感じになります。「車輪梅」も植物、〈卯の花〉も植物で障り合いますし。ここは簡明な言葉を選んで、次のように。 《添削Ⅰ》 初夏の海光とどく車輪梅 さきに、季語の成立について、季節さえ分かれば何でも季語として使ってしまう早急さについての危惧を述べましたが、新しい季語を開拓するという観点から、〈車輪梅〉を使ってみましょう。 《添削Ⅱ》 海光のとどきて白き車輪梅 花の白さが海光によっていっそう際立つという句意になります。あまり知られていない花ではあっても、花の色を詠みこむことで、いくらかイメージを共有出来るかもしれません。 ![]() 《原句》④ 花桐や天城連山靄かかる 眼前には桐の花、遠く仰げば靄たちこめる天城嶺、という遠近の視野を一望に収めた作品です。高々と薄紫の花をかかげる桐の姿が句を引き緊めて、清潔な印象をもたらしました。 難をいえば、下五「靄かかる」でリズムが緩むこと。そのためもあって「花桐」のイメージも鈍るようです。桐の花と山容の対比がこの句の生命になりますから、中七・下五の描出は工夫のしどころでしょう。さらに同じ意味ではあっても、〈桐の花〉〈花桐〉のいずれがよいか、また全体のリズムから見て語順はどうかなど、ひととおり見直してみます。 靄こめし天城連山桐の花 天城嶺は靄たちこめて桐の花 なども考えられますが、もう一つ、この「靄」がかかっている景色が一日のうちのどの時間帯か定めると景がはっきりするかもしれません。昼は論外として、朝か夕かを比べると原句のイメージのすがすがしさは朝がふさわしいようです。 《添削Ⅰ》 朝靄の天城連山桐の花 天城嶺は朝靄のなか桐の花 絶対にということではありません。原句はほとんど完成された景を描いています。考える一例として付言いたしました。 ![]() 《原句》⑤ 西方にいい話あり蟻の列 この作者の作風には遊びがあって、成功すれば洒脱・滑稽な俳諧味に溢れた句を見せてくれるのですが、失敗すると俗に堕ちてしまう場合が往往にしてあります。 原句もその危険性をはらんでいますが、俗っぽくしている一因は「いい話」というところでしょう。この言葉は、〈うまい話〉〈耳よりな話〉といった利得に絡む想像をひきよせます。「蟻の列」といっていますから、まさに甘い餌につられてぞろぞろと群れていく卑しさを、人間界の俗事に重ねているかに感じられ訂正てしまいます。 もし発想がそうであるのなら、これは詩のあり方に遠いものです。文芸というものは仮に醜い世界を描いても一筋の光を胸に秘めているべきでしょうし、それが自ずから作品に滲み出る、そういうものでありたいと願っています。 原句の場合、「西方」というこの言葉が鍵を握っています。西方つまり西方浄土、阿弥陀仏の在す極楽浄土を容易に思い出させる言葉になります。であるならば格調のある措辞で一句をまとめましょう。 「蟻の 《添削》 西方によき話聞く蟻の道 |
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(c)masako hara |
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