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第55回 2012/12/28あ | |||
《原句》① 放生会そわそわそわと始まりぬ 放生会は仏教の殺生戒の思想に基づいて、生類を池川山林に放って供養する儀式。九月十五日頃に行なわれるもので、京都の石清水八幡宮や大分県の宇佐神宮が代表的です。各地で行なわれていますが、放つのは魚鳥のほか、亀や貝のたぐいもあるとのことです。 原句の「そわそわ」の語は落ち着かないさまを表しますが、さて何が落ち着かないのでしょう。行事そのものという解釈も出来なくはありませんが、漠然としすぎるようです。気もそぞろになっている作者、あるいは作者を含めた見物人の様子であるとはっきりさせた方が、放生会に対する期待感も伝わります。 《添削》 そはそはと待ちて始まる放生会 「そわそわ」は現代仮名遣い、「そはそは」は歴史的仮名遣いの表記です。 放生会の例句には次のような作品があります。 放生会べに紐かけて雀籠 村上鬼城 「べに紐」は紅紐。放生を待つ雀が入れられている籠に結ばれた紅の紐。この色彩感は鮮やかです。ただの紐である場合と比較して、印象がぐっと際立ってきます。 村上鬼城は大正から昭和初期の「ホトトギス」で名を高めた人。生活は豊かではなく、耳が不自由でもあったのです。 冬蜂の死にどころなく歩きけり 春寒やぶつかり歩く盲犬 など、小さな生き物に自己の境涯が投影され、独得の境地をひらいています。 ![]() 《原句》② 寺町に人かたまるや小六月 「人かたまる」の表現がどのような状況を示すかをまず考えてみましょう。二、三人程度ということはなく、せめて五、六人以上の多数を想像させます。ひとところに人が密集する状態ですが、そうなると「寺町」ではあまりに区域が広すぎます。境内とか参道ならば納得がいきますが。 次に、そんなふうに人が密集するのは何故だろうという余計な疑問が引き出されてきます。となると、何かの行事や祭ということも考えられますが、その場合は「小六月」ではなく、行事や祭の名称を下五に置く方が状景を直截に描くことになるでしょうし、さらに「寺町」という場の設定も不要になります。 推察するところ作者の意図は、小六月の暖かい日和に、寺詣での人々の姿を多く見かけたという辺りにあったのではないでしょうか。それならば「寺町」の広さにふさわしい表現がありそうです。人出が多いということですから、 《添削》 寺町に人の行き交ふ小六月 〈小六月〉の季語は〈小春〉ともいって、陰暦十月の異称ですが、この時期の穏やかに暖かい日和の意味を含んで使われます。 玉のごとき小春日和を授かりし 松本たかし 山内にひとつ などをはじめ例句の多い季語です。 松本たかし、川端茅舍は共に虚子の「ホトトギス」門。よき友人、ライバルでした。たかしは能楽、茅舎は画業を志していましたが病身のため断念という経歴にも共通性があります。茅舎はたかしを「生来の芸術上の貴公子」と評し、たかしもまた茅舎について「神気汪溢してゐると同時に強い魔性の蠱惑がある」と評しています。 ![]() 《原句》③ 朴散るや降りみ降らずみ山の雨 前出の例句で紹介した川端茅舎に 朴散華即ちしれぬ行方かな の句があるので、朴の花を散ると思っている人は多いのですが、実際には茶色にしなびていつとなく落ちるもののようです。飯田龍太は季語解説で、〈朴散華〉は心象風景として理解出来よう、と言っています。宗教的イメージを負った言葉と思います。 原句の場合は、観念を入れない写実的な景ですから事実に即したいのですが、さて考えどころですね。別の植物というのも一案ですが、一句全体を眺め返してみますと、花が散ることと雨とは情趣として同じ方向を向いているような気がします。静かでやや寂しさを含んでいます。散る・降ると、二つの動きが重なるのもうるさいようです。 朴の花は咲いている状態でそこにあれば充分ではないでしょうか。上五は〈朴の花〉だけでいいのですが、この場合の「や」の切れは大変効果的でした。調べの上からも是非必要です。それでは、 《添削》 朴咲くや降りみ降らずみ山の雨 と致しました。作者の言いたかったことから、それほど隔たってはいないと思うのですがいかがでしょう。 ![]() 《原句》④ 朽ちかくる藁塚小さき影をおく 観察のゆき届いた作品です。大抵は「藁塚」という好句材を見つけてそこで満足してしまうのですが、「影」に着目なさったのは秀れた発見でした。高浜虚子に もの置けばそこに生れぬ秋の蔭 があります。こちらは具体的なものは何もありません。けれど影(蔭)というものの本質をずばりと言い切った句として、その図太さに感嘆してしまいます。 一方、作者は具体的にものを捉えています。少し整理してみましょう。一句の核心は藁塚の影です。そこに焦点を絞る場合、「小さき」は蛇足でしょうし、さらに藁塚が朽ちかけていてもいなくても構わないことです。肉を全部削ぎ落としてしまえばそういうことですが、そうはいっても作者は影の小ささに心を惹かれたのかもしれません。それならば 藁塚に小さき影の生まれけり としてみますが、物体と影に関わる表現としては目新しいところはありません。 作者の眼に最初に飛びこんできたのは朽ちかけてへたっている藁塚だったと思われます。そちらを生かすとどうなるでしょう。影までもへたって小さく印象されているようです。それなら思いきって次のように、 《添削》 朽ちはてて藁塚影を失へり ![]() 《原句》⑤ あの辻に北風小僧と待ち合わす お若い作者のようです。表記も現代仮名遣いを採用しておいでらしく、〈待ち合はす〉ではなく〈待ち合わす〉となっています。 民話的メルヘン調で仕立てられた空想の句。こういう作品の場合は、読者を有無をいわさず虚構の世界に引きずり込む剛腕が必要です。その為には「あの」は思わせぶりで、どんな場所という疑問を生じさせます。そんな隙を与えぬようにするのが肝心。 《添削》 この辻に北風小僧と待ち合わす たまにはこういう世界に遊んでみるのも頭の体操です。 私の句で恐縮ですが一つご披露しますと、 吊橋揺すれ寒さ来るぞと風小僧 という句を作ったことがあるものですから、今回の作品に親しみを覚えました。もっともいつもこればかりでは困りますと申し添えておきましょう。 |
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(c)masako hara |
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