旧暦十一月二十三日前後にダイシコ(大師講)と称して、粥をたく行事が日本各地でかなり広く行われてきた。文化十四年(一八一七)の「越後国長岡領風俗問状答」は、屋代弘賢による「諸国風俗問状」に答えたものである(いずれも『日本庶民生活史料集成(第九巻)』、所収)が、その中でも「いかなる家にても団子入たるかゆを煮て供し侍り。箸は栗の木にて壱本を長く、壱本を短くす。」とあって、団子入りのお粥に長さの揃っていない箸をわざわざ作って供えていたらしいことが記されている。
ダイシコは高僧に与えられる大師号と結びつけて理解され、弘法大師をはじめ、智者大師、元三大師、あるいは達磨大師さらには聖徳太子などのことであると説明されている。そのこと自体が庶民生活のなかに仏教的な知識が浸透していった過程を表すもののようである。
粥をわざわざ煮るというのも、供物の一種として考えておいてよい問題である。餅や団子と同じように粥もハレの行事を示す重要な調理方法であった。大師講では、たいていは小豆粥であるが、越後長岡領のように団子入りであった地域もあり、「丹後国峯山領風俗問状」では小豆粥とともに雑穀食も供すると記されていた。必ずしも米の粥ではなかった点に、この時期に訪れ、祭られる神霊の性格が投影されているのかもしれない。すなわち、粥の中味から稲作だけではなく、畑作の守護を担う神格を想定することもできるだろう。
「越後国長岡領風俗問状答」では、先に引用した記述に続けて「こよひ雪ふればあと隠しの雪ふりぬといふ。是は智者大師こよひ里々をめぐり給ふに、みあしのあと人に見せじと、降雪なりとてしかいふとぞ。」と述べられている。大師講には何らかの神霊の来訪があると信じられ、その痕跡を隠すために雪が降ると考えられていたことがわかる。
西日本の日本海岸では、旅の僧侶の姿に変じて訪れた大師をもてなすために、食べ物を盗んだ老婆の足が不自由で、その足跡を隠すために雪が降るのだ、と説明していた。窮余の末の一度限りの行為が、毎年の降雪と結びつけられていたのである。
東北地方でもこの時期の風雪を広くダイシコ(大師講)吹きと呼んで意識していた。日本各地でこの時期に降る雪が、ダイシコと呼ばれる行事と何らかの関係があると考えられてきた点が興味深い。
「祭り雨」とか「清めの雨」といった祭りに際して僅かでも雨が降るという伝承は、神霊の降臨やその前提としての禊ぎの感覚があったことを示すという見解が民俗学では有力である。ダイシコの雪もそれとつながるものなのかもしれない。
柳田国男は「大師講の由来」(『日本の伝説』、一九四〇年)のなかで、ダイシとは本来は大子とでも書くべきで、尊い神の御子の意ではなかったか、と述べている。時を定めて、冬の時期に訪れる神霊とそれに対する供物が、やがて回国する僧侶のイメージに変化し、伝承されてきた、とするのである。
寒さが厳しくなっていくこの時期に仕立てられる粥の暖かさは、食文化としての伝統であるだけでなく、こうした季節の進行と結びついた神霊を迎える人々の心のぬくもりともつながっている。
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