神々の歳時記     小池淳一  
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2010年10月1日
【53】十夜念仏の民俗性

 主に浄土宗の寺院で、旧暦の十月十日前後の十日間に行われる法要を十夜と称する。この十夜は、阿弥陀仏への報恩と感謝に基づく仏教行事であるが、そこにはさまざまな民俗的な要素も付け加わっている。
 まず、十夜のおこりであるが、京都市左京区の真如堂の縁起のなかに十夜念仏の始まりが説かれている。永享の頃(一四二八〜一四四一)、平貞国という武士が深く阿弥陀仏に帰依し、真如堂で三日三晩の念仏を行った。三日目の明け方に夢に僧形の姿が現れて、「心ダニタテシ誓ニカナヒナハ 世ノイトナミハトニモカクニモ」という詠歌で、あと三日、現世で務めを果たすべきであると教えた、そして実際に家督相続の報が貞国にもたらされたことから、さらにその感謝の意を込めて七日七夜の念仏を執行した。そして先の三日と併せて十日十夜とこの行事を名づけることとなった、と説かれている(仏教大学民間念仏研究会編『民間念仏信仰の研究(資料編)』、一九六六年)。
 それから浄土宗寺院の行事として、各地で盛んに行われるようになったというのが仏教の側からの説明である。しかし、一方で十夜の行事が広がったのは、農耕暦において収穫の祭りと近接しているためであるとし、十夜に収穫祭の要素と結びついた部分があることを重視する考え方もある。
 竹田聴洲は、京都の真如堂とそれに次いで鎌倉の光明寺が十夜念仏の中心として世に広く喧伝されたことを歴史の表面的な消息としては重視すべきであるとする。しかし、旧暦十月に特に念仏を行う点に留意すると、その民俗的な性質が浮かび上がってくるという。おそらく収穫の時期の、しかも十五日の満月に近接していることが、十夜の念仏と民俗との架橋にあたっては重要であった。
 俗に関東の三大十夜といえば、鎌倉の光明寺の「双盤十夜」、鴻巣の勝願寺の「塔婆十夜」、それに八王子の大善寺の「諷誦文十夜」をさすが、いずれも群集の参拝があり、共通して亡霊供養の要素が色濃い。さらに各地で十夜粥と称して小豆粥を作って食べる習慣や初穂を仏前に供える事例など、十夜をめぐっては寺院における念仏法要とは異なる要素が多く見られることから、その根源には稲の収穫感謝の祭りが想定できるというのが竹田の見解であった(「十夜念仏と亥子・十日夜の行事」『竹田聴洲著作集(第八巻)村・同族・先祖』、一九九三年)。十夜念仏の中には民俗的な農耕の節目の感覚が吸収されていったのである。
 長崎県壱岐の勝本町の泥打堂というのは、本尊が毘沙門天であるが、もともとは廃寺となった東門寺にあったものであるといい、毘沙門天を慰撫するために十夜講がはじめられたと伝えられている。かつては十月二十日、戦後は十八日に、歎仏供養、念仏が行われ、その後の会食の間には、サンカクモライと称して三角に結んだ握り飯を若者たちが「サンカクヤレ」と言って堂の格子から手を突っ込み、乞食をする習俗があった(鷲見定信「十夜講と十夜法要」伊藤唯真編『仏教民俗学大系(第六巻)仏教年中行事』、一九八六年)。仏事とは思えないこうした行事には収穫の喜びが溶かし込まれているとみた方がよいだろう。
 厳かに行われる寺院行事の周辺には地域ごとの収穫の感謝があり、農事の成功の歓喜があった。念仏をはじめとする仏教のさまざまな要素はこうした農耕のリズムと結びつくことで地域に浸透していったのである。

   くさめ聞く寒さうつりや十夜堂   皆吉爽雨



 

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