『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2013/06/20
子供

  第三十六回
 歌詞も知らずに「箱根八里」

 テレビなどない戦中、戦後に、子供時代を過ごした世代に、ラジオは実にありがたい機械だった。少々雑音が入って聞きがたいこともあったが、童唄や唱歌の類は言うに及ばず、軍歌も歌謡曲も、このラジオから聞いて覚えた。文字から覚えた歌は、せいぜい学校の音楽の時間に習うものだけだった。
 私の少年期を過ごした群馬は、農村地帯だったから、どこの農家にも養蚕などに使う、広いバラックがあった。太平洋戦争が激しくなると、これらが軍需部品を作る工場になってきた。大きな旋盤(せんばん)などが持ち込まれ、学徒動員の中学生が、ここに大勢やってくるのである。
 年齢的に兄貴分の、この中学生から、後に参考になる多くのことを学んだが、逆に、親達がいやがる歌もここで覚えた。その多くが、耳から聞いたものである。例えばこんな歌がある。
  いやじゃありませんか軍隊は (かね)茶碗(ちゃわん)に金の(はし) 仏様でもあるまいし
  (いち)(ぜん)飯とは情けない
 歌意は成長するに従って理解できたが、これから召集されるかも知れないこの中学生達がやるせない思いを込めて唄った歌なのだろう。もう一つ、この歌の節で唄う(わい)()も教わり、家の中で唄って、「どこで覚えたの!」と、母にこっぴどく(しか)られもした。その母はまた、「はやり歌」といって流行歌も嫌った。
 とは言え、毎日ラジオから流れてくる、田端義夫の「別れ船」や霧島昇の「誰か故郷を想わざる」、高峰三枝子の「湖畔の宿」など、戦前の歌を多く知っているのも、このラジオのお陰である。
 戦後になると、早速NHK第一放送が、戦後にふさわしい明るい曲を流し始める。並木路子の「リンゴの歌」や、近江俊郎の「山小屋の灯」、藤山一郎の「夢淡き東京」などがそれである。夕方六時からの子供向けの放送劇(当時はこう呼んだ)「鐘の鳴る丘」の主題歌は松田敏子が唄った。この放送劇の作者は劇作家の菊田一夫で、後に、放送時間帯の銭湯が空っぽにもなると言われた放送劇「君の名は」の作者でもある。
 こんな風に子供のころ覚えた歌は忘れないもので、大人になっても、時に口ずさむことがある。中には難しい歌詞の歌もあって、呟いているのに、その文言が文字化できない曲も随分あった。
 例えば、北原白秋の童謡「雨」の一節もそうだった。「雨がふります 雨がふる 遊びにゆきたし 傘はなし (べに)()木履(かっこ)()が切れた」と続く。下駄の赤い鼻緒でもある紅緒くらいの意味なら中学生のころ気付いたが、木履の意味は大人になるまで知らなかった。しゃれて言えば、子供の履く「ぽっくり」のことなのだ。そう言えば、大人の使う幼児言葉の中に「かっこ(・・・)を履いて、お出かけしましょうね」とささやく言葉があったことを思い出す。
 当時、唄うことの多かったのが「荒城の月」かも知れない。なにせ耳から聞いて覚えた歌だから、頭の中でなかなか文字化できない。この歌は土井晩翠の作詞である。中でも、歌詞そのものが韻文の調べを持つ「(はる)高楼(こうろう)の花の宴」や「千代(ちよ)(まつ)()わけいでし」などは、中学生のころ初めて手にした印刷物を見て、「そうだったのか」と思ったりもした。
 中でも難解だったのが、「箱根八里」の歌詞だったかも知れない。明治三十四年にできたというこの歌も、子供の間でよく唄われた。ちなみに、その歌詞を書きだしてみる。

 箱根の山は 天下(てんか)(けん)
 函谷関(かんこくかん)(もの)ならず
 万丈(ばんじょう)の山 千仭(せんじん)の谷
 前に(そび)(しりえ)(さそ)
 雲は山をめぐり
 霧は谷をとざす
 (ひる)(なお)(くら)き杉の並木(なみき)
 羊腸(ようちょう)小径(しょうけい)(こけ)(なめら)
 一夫(いっぷ)(かん)()たるや万夫(ばんぷ)も開くなし
 天下に旅する剛毅(ごうき)武士(もののふ)
 大刀(だいとう)(こし)足駄(あしだ)がけ
 八里(はちり)(いわ)()(なら)
 ()くこそありしか往時(おうじ)武士(もののふ)

 少々長いが、一緒に口ずさんで欲しい。箱根八里とは、東海道の小田原宿から、箱根峠を越えて三島宿までの難所で、今の里程で言うと三十二キロになる。例えにも言う「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」のそれである。
 鳥居忱作詞、滝廉太郎作曲のこの歌、諳(そらん)じている難しい歌詞のそれぞれを、生長に従って理解していく楽しみが、私にはあった。そして最後に残った「函谷関」と「羊腸の小径」、それに「一夫関」だけは、辞書のお世話にならざるを得なかった。
 まず「函谷関」だが、これには中国の故事が引かれてある。その中国の華北平原から()(すい)(黄河の大支流)盆地に入る要衝の地にあるのが函谷関である。黄土の絶壁に囲まれた関は昼なお暗く、さながら(はこ)の中を歩くようだというのが名の由来。ややオーバーだが、この関を箱根越えになぞらえた。
 一方の「羊腸の小径」は、おおよその見当はついていたが、羊の腸のように、山道が曲がりくねっていることで、今日で言う九十九(つづら)(おれ)のことでもある。
 更に難しい「一夫関」の方は、慣用句に「いっぷ(かん)に当たれば万夫(ばんぷ)(ひら)くなし」と、「箱根八里」と、ほぼ、同文のものがあった。一人が関所を守れば、万人が力を振るっても通れない、の意だから、箱根の関所の要害堅固ぶりを言ったものである。
 私達が覚えた「箱根八里」の歌詞は「昔の箱根」という方で、別にもう一つ「今の箱根」なる歌詞のものもある。私が調べた「函谷関も物ならず」は「蜀の棧道数ならず」に改められ、「武士(もののふ)」は「壮士(ますらお)」に言い替えた。その結果、「大刀腰に足駄がけ」のくだりは、くそおもしろくもない「猟銃(りょうじゅう)肩に草鞋(わらじ)がけ」となった。この歌詞では唄う気力も失せてしまう。




(c)yoshihiro enomoto



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