『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2013/06/30
子供

  第三十七回
 三角ベースと呼んだ野球

 子供なら、誰でも、いつの時代も野球に熱中するものである。今日のように、野球のテレビ中継はおろか、プロ野球が戦時で中断されている折さえ、子供は野球をしようとしていた。
 まず、私達のやってきた、その野球らしさの一部を紹介してみる。二十年八月、終戦によって子供達は、空襲等の戦禍から解放されたが、その喜びは野球によって満たされた。四角い野球場のスペースが取れる場所は、学校の校庭をおいてない。となれば、細長かろうが、狭かろうが、草が生えていようが、少々広いところがあれば、野球場として利用した。それが「三角野球」の起こりだろう。
 その名の通り、セカンドベースをなくし、ファーストベースとサードベースを置けば、まさに三角ベースになる。ホームベースは、農家から失敬した桟俵を置くだけ。お寺や神社の境内でも、ちょっとした空き地があれば、これができた。人数も、両チーム合わせて十八人は必要なく、十人ほどが集まれば、それができた。
 野球の用語も敵性語としていたので、片仮名の呼び名は制限されていたから、ファーストは一塁手と、ピッチャーは投手と呼ぶことが習慣となっていた。トラックを貨物自動車と、バスを乗合(のりあい)自動車と呼ぶことと同じだった。
 広場さえあれば、ホームベースから真っすぐ棒きれで線を引いて、しかるべき遠さを一塁の位置とし、ホームから同じく三塁までの線を引き、その三塁から一塁まで直線を引けば出来上がりである。ちょうど、ホームベースを頂点とした三角形になる。一、三塁の上には葉っぱを置いて目印とした。
 ボールはあっても、せいぜい女の子が(まり)つきに使うゴムボールがあればいい方で、大方が、家で作ってもらう手縫いのボールだった。小さめの石を芯に、布をきつく巻いて、上から(たこ)糸をぐるぐる巻きにして作った。このボール、バットに当たっても、そう飛ばないから外野手は不要だった。バットも同様手作りだが、この材は(かし)の木が向いていた。それもバットの形に作るのは堅いので不可能だから、手の握りの部分を小刀で細く削り、握りやすいように、上からヤスリをかけた。
 肝心の捕球具だが、グローブもミットもないから、ボールも軟らかいこともあって、素手で行っていたが、やがて子供の知恵が生かされてくる。
 中には白い布を瓢箪(ひょうたん)の形に裁ち、その二枚を組み合わせて、現在の硬式ボールのように縫った、しゃれたボールを持って来る者もいたが、これらは私同様に疎開児だった。
 昭和二十年八月十五日の終戦を迎えると、兵士が次々に還ってきた。国内にいた者は翌日から故郷に戻ったし、外地に居た兵も、月を追うごとに帰還してきた。町は一気に活気づいた。そんな中まず誕生したのが、野球チームで、当然のことながら、三角ベースの子供達にも影響が出始めた。
 これも終戦間もなくだが、戦時中中断されていた職業野球(プロ野球)も始まり、NHKのラジオの放送も始まった。それまで手作りだった野球用具も、順次出回り始め、ゴム製の軟式ボールや、本物のバットを手にした折の喜びは筆舌に尽くし難いものがあった。
 これも終戦からそう遠くないころだったと思うが、アメリカのプロ野球チームが来日した。記憶は定かでないが、サンフランシスコ・ジャイアンツで、監督は確かオドゥールと言った。実況放送もあったが、翌日の新聞のスポーツ面が楽しみだった。これに例えば、ホーム突入の写真が載ると、プロ野球のサードとホームが、なぜこれほど近いのだろう、とも思った。これが望遠レンズで撮った写真であることに気付くのは、更に数年経ってからのことである。
 本物の野球用具を手にした子供達の三角ベースは、以降ますます盛んになっていくのだった。



(c)yoshihiro enomoto



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