『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2013/07/22
子供

  第三十九回
 お手玉歌のいろいろ

 このシリーズで、先にお手玉の話を書いたところ、大勢の方から、お手玉にはこんな歌が唄われたとのお教えが届いた。ありがたいことである。中にはインターネットから、わざわざ文言を引いて送って下さる方もいた。そのどれもが、独り口遊(くちずさ)んでみると、どうにか唄える。そんな方のために、お手玉歌の一部を書き出してみることにする。
 中でも知られていたのが「日露戦争」で、数え歌になっている。出だしはこうだった。

一 一列談判(らんぱん)破裂して
二 日露戦争始まった
三 さっさと逃げるはロシヤの兵
四 死んでも(死ぬまで)尽くすは日本の兵

 こんな風に始まる。カッコの中の言葉は、土地による違いなのだろう。私などは、「いちれつらんぱん」と唄っていたから、一体どんな意味か分からず、大人になってからも、人前で唄ったことはなかった。「らんぱん」が談判と分かった今でも、それに続く「破裂して」が大仰過ぎやしないかとも思う。
 更に「五」以下は、こんな風に続く。

五 五万の兵(御門の兵)を引き連れて
六 六人残して皆殺し
七 七月八日の戦いに
八 ハルピンまでも攻め込んで(寄って)
九 クロポトキン(クロパトキン)の首を取り
十 東郷元帥(大将)万々才(十でとうとう大勝利)

 使われた言葉の説明も少々必要である。戦前はハルピンと呼ばれたが、今はハルビン(哈爾浜)で、中国東北部の黒龍江省の省都。かつてのロシアが鉄道の基地として建設した街。クロパトキンは、日露戦争の時の極東軍総司令官で、歌詞には「首を取り」とあるが、敗戦で解任され、和暦で言うと大正十四年まで生きたことになっている。
 日露戦争は明治三十七~八年(一九〇四~五)の時代だから、明治や大正生まれの人々に唄い継がれるのなら分かるが、昭和生まれの世代、それも太平洋戦争を終えた時代の少女まで、とりこにしていたから、何とも奇妙である。
 そんな時代を生きてきた私にも分かることは、戦後になかなか子供向けの歌や遊びが生まれなかったことと、親の世代がまだ懐かしく、このお手玉にいそしむ場面が多くあったのだろう、とも思う。
 もう一つ、男の私にも懐かしい歌が、「あんた方どこさ」かも知れない。この歌の最後のくだり「骨を菜の葉で ちょっとかぶせ」のところで、手毬をスカートの下に隠したから、これは手毬唄と思っていたが、友人の多くはお手玉にも唄ったと、口をそろえて言う。
 その歌詞を、正確を期すため『日本童謡事典』(東京堂出版)から抽いてみるとこうである。

 あんた方どこさ 肥後さ
 肥後どこさ 熊本さ
 熊本どこさ 船場(せんば)
 船場山には 狸がおってさ
 それを猟師が 鉄砲で撃ってさ
 煮てさ 焼いてさ 食ってさ
 骨を菜の葉で ちょっとかぶせ

 この歌も、先の「日露戦争」同様に、作詞、作曲者はもちろんのこと、歌そのものの出自も分かっていない。ただ言葉の末尾の終助詞「さ」の切れがよく、全国に広まった遊び歌でもあった。しかも、昭和の初期から始まったゴム毬の普及と合わさって、全国に伝播(でんぱ)していくことになる。
 子供心にも、この歌詞には物語性があって面白かったし、大人になった今も、目の前の景が、肥後→熊本→船場→船場山→狸→骨といった具合いに、円錐型に狭められていくところに妙味を感じている。
 歌に出てくる当の熊本で唄われるものは、「船場川には 海老(えび)さがおってさ それを漁師が 網さで取ってさ」となるという。この船場川(旧名)は熊本城近くを流れ、船場の町名も現存している。
 お手玉歌と手毬歌の両方に唄われるものに「一掛け二掛け三掛けて」がある。
 江戸時代の末に、大人の間にはやった流行歌「かけ節」は、明治期になって維新後、「ラッパ節」となり唄い継がれた。その調べが子供にもなじみやすかったので、女の子のお手玉歌として取り込まれた。まず、その歌詞をご覧いただこう。これも、先の『日本童謡事典』からの引用である。

 一かけ二かけ 三かけて
 四かけて五かけて 橋かけて
 橋の欄干(らんかん) 腰かけて
 遥か向うを 眺むれば
 十七八の 姉さんが
 片手に花持ち 線香(せんこ)持ち

と、第一節にはある。この第一節しか知らなかった私などは、なぜ片手に花と線香を持つのだろう、の思いだけで、記憶が途切れていた。続けて第二節には、こうある。

 お前は誰かと 問うたれば
 わたしゃ九州 鹿児島の
 西郷隆盛 娘です
 明治十年 戦争に
 討死なされた 父さんの
 お墓参りを致します

 これでやっと、私の中の(なぞ)は解けた。
 この歌には西郷隆盛を中心とした西南の役が、下敷きとしてある。一切の官職を辞して下野、古里で私学校を興し、子弟の教育にあたっていた西郷だったが、政府の開明策や士族解体策に反対する私学校の生徒ら三万人余は、明治十年二月、西郷を擁して挙兵、熊本鎮台を囲んだ。これに対して政府は、ただちに徴兵令による軍隊で対応し鎮圧した。同じ年の九月二十四日のことである。西郷はじめ指導者の多くは自刃し、この乱は平定している。
 と見てくると、この歌の流行も分かろうというもの。もう一つ、この乱にかかわる一事がある。熊本県の代表的民謡「田原坂(たばるざか)」がそれだ。西南の役から十七年後の明治二十七年のころ、九州日々新聞の記者、入江某が、西南の役の折、田原坂の激戦で死んだ九州男児をしのんで作詞した。曲は、熊本の芸妓(げいぎ)、留吉が付けている。この「田原坂」への共感もあって、このお手玉歌は、長いこと唄いつがれることになる。
 もう一つ忘れてならないお手玉歌は、「青葉茂れる桜井の」で始まる「湊川」(桜井の訣別)かも知れない。こちらはれっきとした唱歌で、落合直文作詞、奥山朝恭作曲ということになっている。そんな出自だから、明治期より、昭和の太平洋戦争のころまで、知らない人のいなかった歌でもある。
 この歌のモデルは、軍記物語『太平記』の中の英雄、楠木正成(まさしげ)である。別名に「桜井の訣別」とあるように、正成が足利尊氏追討の命を受けて兵庫に向かう途中、桜井の里で、子の正行(まさつら)を諭して故郷に帰す、泣かせる物語である。
 「孝女白菊の歌」などと同じように、落合直文の長編唱歌だから、書ききれないので、第一節と二節だけを書き出してみる。一緒に口遊(くちずさ)んで欲しい。

①青葉茂れる桜井の
 里のわたりの夕まぐれ
 木の下蔭に(こま)とめて
 世の行く末をつくづくと
 忍ぶ(よろい)の袖の()
 散るは涙かはた露か
②正成涙を打ち払い
 我が子正行(まさつら)呼び寄せて
 父は兵庫に(おもむ)かん
 彼方の浦にて打死(うちじに)せん
 汝(いまし)はここまで(きつ)れども
 とくとく帰れ故里(ふるさと)

 こうは言われても、「はい、そうですか」とは言えない、正行と父、正成の長いやりとりが続く。
 この歌は、ここに書いた「桜井訣別」と、「敵軍襲来」「湊川奮戦」の三部から成っている。タイトルにもなった湊川は、兵庫県の六甲山地から発する川で、楠木正成の湊川の戦いの主戦場となったところである。


(c)yoshihiro enomoto



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