第20回 2010/06/01 |
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番外編 |
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秋来ればいつもあはれにきぬたかな 虚子 やま里や身のあはれしる小夜きぬた |
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明治二十四年 |
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これらの句は「席上連俳」あるいは「難題」「課題」「兼題」とか呼ばれていたようだ。 要するにこの場合、 「兼題」・・・・砧と国名三つ入り 季題は「砧」、その一句の中に三つの「国名」今の県名を入れなければならない。 ちなみに、 一句目 「秋」・・・安芸、「いつも」・・・出雲、「あは」・・・阿波 二句目 「里」・・・佐渡、「身の」・・・美濃、「あは」・・・阿波 明治二十四年は虚子十七歳くらいである。 ここには碧梧桐や子規も参加していた節があるが、まったくの遊戯の俳句会である。それを現代でいかめしく糾弾するつもりはないが、当時はずいぶん放埒で自由な風が吹いていたのだなあと驚嘆する。 俳句としての出来はまあまあだが、この駄洒落の国名にはなかなかのものがある。里を佐渡としたところなど秀逸。 そもそも虚子はこの年の五月くらいから俳句を表に出している。当時は子規の選句および添削を受けつつであった。 しかし、今なら十七歳は高校二年生。まだ遊びたいし逸脱したい年ごろである。だから、子規(?)は退屈しないように、うまいことを考えついたものである。明治の進取の気象と言えば大仰だが、現代の俳句指導から見ればはるかに新鮮。 群雀鳴子にとまる朝ぼらけ 虚子 『年代順虚子俳句全集』すなわち、いわゆる後の『句日記』によれば、この句が明治二十四年三月二十五日と一番若いころのもの。 掲句と同年の作。句としては写生句として登場してい、老成したような節回しが少し痛々しい。句意としては群れた雀が鳴子に留まっている朝の風景。俳諧的な風景である。 はたして、子規の指導の賜であったか。 実は、この日は虚子の父が没した日でもある。そのためか、句に哀愁が漂っている。そして、これらの句を作りつつ十月に俳号を「放子」と号している。 どのような意味があったのであろう。 「ほうし」とでも読むか。語彙としては、「放」には「はなつ」「はなす」「いたる」「依る」「倣う」とかがある。その「子」であるのだから、一般的に最も素直な解釈であれば、「俳句を倣う(習う)弟子」くらいの意味であったか。 しかし、十月の二十日にはもう子規によって「虚子」の俳号を授かっている。ご存じのようにそれは虚子の本名の「清」から来ている。 やはりこっちの俳号の方が良い。 |
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(c)Toshiki bouzyou | ||
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