第21回 2010/06/08 |
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番外編2 |
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京女花に狂はぬ罪深し 虚子 |
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明治二十六年 |
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「何故お前達京の女は、この桜に対して物狂はしくはならないのか。私はこの咲き乱れてゐる花に対して何だか気が変になつて来た。私がさうであるのに何故お前達は物狂ひにならないのか。このとりすました罪深い京女め」 『喜寿艶』 虚子の『五百句』だと明治二十七年以降の俳句が掲載されている。結果として二十六年より古い句は抜粋されなかつた。しかし、それではつまらない。本当に若き虚子の句の中で何が最高峰のものであるかを知りたい。 つまり、それ以前の俳句は『年代順虚子俳句全集』から引用するしかない。虚子の明治二十七年の作以前の俳句で、連句や特殊な句を除き、一番すばらしい句はどれかを厳選してみた結果が掲句である。 実はもうひとつ、 門松の其中に立つ都かな 虚子 明治二十五年 これも、京都を門松の中に諷詠するという大きな視点がすばらしかった。 そのため、『虚子句集』という昭和三十一年に刊行された虚子自選句集に載っている俳句を一番としようとしたが、両句とも載っている。 そのため、虚子がその後自選した『五百句』以下『五百五十句』『六百句』『六百五十句』『慶弔贈答句抄』と、高濱年尾選の『七百五十句』までの句集を見たが、ほとんどの時代がそれ以降だから当然載っていない。 しかたなく、いよいよ虚子の喜寿のときに七十七句のみを自選した句集『喜寿艶』を尊重した結果、掲句が載っていたのでこれを一番とした。 すなわち、私の選であるが虚子の二十歳までの句ではこの艶のある句が一番であったという驚きの結果が出たわけである。 『喜寿艶』は素晴らしくおもしろいことに、タイトルの通りすべてが色艶に関係した句だけで構成している。艶めくことに一生を捧げていた虚子の面目躍如の句集である。 しかも、自句自解を好まなかった虚子の言葉が出ている唯一の自選句集と言っていい。 これはやはり、虚子が明治二十五年に京都第三高等中学に入学し京都に住むようになった影響がある。 当時の虚子の文章においても、「京都の女は色白で鼻が高く美人ばかりである」と述懐している。松山中学から来た田舎者のコンプレックスであることは言を俟たない。 虚子の京都にたいする畏怖と憧憬の情は結局死ぬまで続くのであろうが、それだけに掲句のような艶なる句がもっとも若年に作り得たということに大きな俳人の出現を見る思いである。 |
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(c)Toshiki bouzyou | ||
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