第91回 2011/12/6

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹



   春潮にたとひ櫓櫂は重くとも    虚子
        昭和二十年二月十五日
        年尾長女中子、興健女子専門学校に入学の志望あり。試験を受く。

 春の潮はこれからの暖かな未来へと続く。そうであっても、いまだ未熟で若い漕ぎ手は時として重く辛く感じるものである。
 だから、仮にそう思っても、自身のためにその櫓や櫂のあゆみを怠ったり、留めてはならない。それが、祖父から孫へのこれからの船出への祝いと叱咤の言葉なのであった。

 中子とは坊城中子、筆者の母である。
 興健女子専門学校はいまの聖路加看護学院の前身となる看護学校である。そこを、受けてまがりなりにも合格した本人はやがて看護婦への道を歩む。
 その道は結局六十年以上にも及び、去る平成二十三年の三月をもって終了した。
 勤務としての最後は東京渋谷区の内藤病院というこじんまりとした病院。それまでにもいくつかの病院を渡り歩いたが、本人の看護の思いというものはなまはんかなものではなかったはずである。
 家族が病気になると、この看護婦はわりあいオロオロとする。患者が家族であるからふだんとは勝手が違うのかもしれぬ。しかし、そのオロオロこそがナースとしての適性なのかもしれぬ。というか、その情がもっともナースにとっての慈愛の発露なのだろう。それを、虚子や年尾はすでにして一族の長女であった中子に見いだしていたはずである。
 
  吹く風は寒くとも暖遅くとも   虚子
      昭和二十年二月十一日

 その数日前に似たような句がある。
 二月のそのころの暦を詠った句だが、季節の変わり目であり、この年の一向に進まぬ春の訪れを恣意的に句とした。
 中子の人生の旅立ちもこのようなところからスタートした。そして、日本の戦時下の状況もいよいよ激変の予兆にあったはずである。
 虚子は、いつも俳句をその歴史とともに歩ませる。それが国家であろうと、自然であろうと、孫の個人的なことであろうと。
 ここに、虚子の大きな情が隠されている。



(c)Toshiki  bouzyou






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