わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第48回 2012/3/9


《原句》①

  雪催子等住む町へ行く列車

 わが子が暮らしている町と思えば、格別の感情が湧きます。親ごころというものでしょう。その思いを反映させるのが上五の季語です。
 季語の役割は単に季節感を伝えるだけのものではありません。一句の表現全体にゆきわたって、情趣を決定づけるものだと思っています。
 原句では、「子等住む町へ行く列車」は一つの事象を述べています。このフレーズには、まだ何の性格づけもなされていません。どんな心持で、この列車を眺めているのか、それを想像させるのが、この場合上五に置かれた季語の働きです。
 「雪催」は雪になる前のどんよりと曇った空模様です。不穏な天気、とまで言っては作品に対して申し訳ないのですが、たまたま天候がそういうときだったのでしょう。でもそれは実際の場での現実にすぎません。
 試みに、季語によって作品の印象がどんなふうに変わるか例をあげてみましょう。
  小春日や子等住む町へ行く列車
  冬うらら子等住む町へ行く列車
  雪晴や子等住む町へ行く列車
 〈冬〉の季から無作為に選んでみました。いずれも明るい気分が出てきます。
 季節にこめる感情によって、作品はいろいろな表情を見せます。もう一例あげておきます。

《添削》

  雪明り子等住む町へ行く列車





《原句》②

  浅春の歩幅小さくウォーキング

 「歩幅大きく」ならば、元気よく運動をしているのだなと、すんなり納得がいくのですが、「小さく」しているのはどうしてかと疑問が残ります。体調が万全ではないのかと余計な心配をしかねません。
 おそらく、小さく歩を運ぶウォーキングのやり方があるのでしょう。それならば、

《添削》

  浅春や歩を小刻みにウォーキング

 上五は「春浅し」としてもよいですね。



《原句》

  生国に帰れぬ人や鳥曇り

 事情があって他国で生活するしかない身の上の人。一般的にそのようにだけ受け取ってかまいませんが、大震災以後このような境遇の人々が多数いらっしゃいます。原句もそのことを詠んだのかもしれません。
 〈鳥曇〉は、鳥帰る頃の曇り空です。作者の気持としては、鳥は帰っていくことが出来るのに、という思いが下敷きにあるのでしょう。本当は〈鳥帰る〉の季語をつかいたいところかと思いますが、「帰れぬ」の語があるために「帰」のダブリに拘りがあったのでしょうか。
 〈鳥帰る〉とほぼ同じ意味で〈鳥雲に〉があります。〈鳥雲に入る〉の省略形です。こちらを使って、

《添削》

  生国に帰れぬ人や鳥雲に

 天候である「鳥曇」よりも句意が明確になると思います。




《原句》④

  湖に霞がかりの小舟かな

 湖上に舟を浮かべて漁をしている景でしょうか。湖沼に生息する淡水魚の諸子{もろこ}や鮒{ふな}などは、水ぬるむ春ともなれば盛んに活動を始めて、漁の好機となります。
 原句の駘蕩たる景色からは、琵琶湖を思い浮かべたくなりますが、さてどうだったでしょう。
 琵琶湖といえば、芭蕉の句と、それにまつわる次のような名高いエピソードがあります。
  行く春を近江の人と惜しみける   芭蕉
 これには〈湖水を望みて春を惜しむ〉の前書がついていますが、この句について弟子の一人が、なにも近江に限ったことではない、丹波だってかまわないと難じます。師の芭蕉に、お前はどう思うかねと問われたもう一人の弟子去来は、「湖水朦朧とけぶるような趣が春を惜しむ情に通い合うと思いますが」と応えて、芭蕉から、共に風雅を語るべきものなりと喜ばれています。
 原句に琵琶湖を想像したくなったのは、このエピソードで言われている〈湖水朦朧として〉からの連想でした。原句中七の「霞がかり」の語の工夫はすぐれています。
 いくらか気になるのは、「湖に」の詠い出しが場を設定する条件づけの形で置かれているために、説明的にひびく点です。
 さらに句の表現上、霞をまとっているのは小舟だけということになりますが、実景としては湖そのものが霞を帯びていて、そこに小舟もある、という状景だろうと思います。
 もちろん、実景は実景として、句の世界では小舟だけが霞んで見えたと強調して一向にかまわないことですが、どちらの景がよさそうかと考えてみるのも無駄ではないでしょう。
 茫洋と霞む湖水に浮かぶ一つの小舟、とする場合、

《添削》

  湖の霞がかりに小舟かな


 となります。助詞の「の」と「に」を入れ換える結果になりました。
 湖の広やかさ、そして一点景の小舟との対照が生きるように思いますが。
 絶対にと主張するほどではありません。作者の詠みたい主眼がどこにあるかによって、決定していって下さい。


 ※
 この添削教室も丸一年が過ぎました。
 始まった頃に比べますと、季語の用い方や言葉の組み立て、リズムなど、それぞれの方がかなりのレベルで俳句の方法を身につけてこられたと思います。
 技術的な面で手助けをさせて頂いた訳ですが、何よりも嬉しいのは枝葉末節の技術にとどまらず、個々の作者が詠む対象を自分自身の眼で捉えようという意欲が深まっていらしたと感じられることです。見たこと感じたことを自分の言葉にしようとするとき、思いがけない自分の発見にもつながります。
 私自身も皆様の作品から新鮮な発見の驚きを沢山いただきました。お礼申し上げます。
 とりあえず今回を一区切りとして、四月からは月一回のペースで新たに始める予定でおります。よろしくお付き合い下さい。

                (c)masako hara

              






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