わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第47回 2012/3/2


《原句》①

  坐りても立ちても纏ふ朧かな

 春は大気中に含まれる水蒸気が多いために、物の姿がぼんやりと潤んで見えます。〈朧〉は春夜、月に薄雲がかかっているために万物がかすんで見える現象を言いますが、詩歌に詠まれてきた〈朧〉はかなり情緒的で、対象の範囲も広がっています。朧夜・朧月はむろんのこと、草朧・谷朧・岩朧など。鐘朧となると聞こえてくる鐘の音にまで朧の気配を感じ取っている訳ですから、〈朧〉の季語は相当に主観的で情感のこもった使い方をされています。
 原句の場合も、眼に見える現象というよりは多分に心象的なものです。作者のこの時の気分・情調が、春夜の何かしら摑みがたい不確かさと響き合ったのでしょう。
 「(まと)ふ」では自分が意図した動作のようになりますから、「(まつ)わる」として、否応なしに「朧」が身に絡みついてくる表現にいたします。その方が思いが深くなるでしょう。

《添削Ⅰ》

  坐りても立ちても朧まつはりぬ

 「纏」の漢字表記よりも、平仮名の柔らかさがふさわしいかもしれません。

《添削Ⅱ》

  坐りても立ちても朧深きかな


 添削Ⅰでは原句の「纏ふ」という主情的な把握をそのまま生かしましたが、こちらはその主観を弱めて、朧の中の立ち居の意にとどめました。作者の心情は「深き」の語に反映されると思います。気持に叶う方を選んで下さい。
 先人の例句をご参考までにあげておきます。
  大原や蝶の出て舞ふ朧月     丈 草
 内藤丈草は芭蕉の晩年の弟子。芭蕉の死に際して三年間の心喪に服したといわれます。人格の高潔さで蕉門の人々に親愛されました。
 例句は、平家物語の建礼門院の悲話で知られる大原の地。うすうすと霞む朧月の下、幻影のように舞い出た蝶は薄幸の女人の化身を思わせる、という飯田龍太の名鑑賞があります。その龍太には次の句。
  貝こきと噛めば朧の安房の国   飯田龍太




《原句》②

  たちまちに火の走り行く野焼かな

 早春、芽吹きの時期を迎える前に、枯草を焼き払うのが〈野焼〉。害虫を駆除して、次に萌え出る飼料の草の成長を促すのと、山菜類の発育をよくする為だといいます。〈野火〉は野焼の火のこと。
 原句は、ある程度の距離をおいて「野焼」の全体を捉えています。確かに「野焼」というのは誰が見てもこのようなものですし、一句のリズムも整っていて出来上っています。その上で、欲をいえば作者だけが捉え得た「野焼」の状景を描いてほしいと思うのです。部分的な手直しでどうこうするといったことではなく、ものをどのように見たか、感じたかという基本に関ってきます。
 こういう場合には添削よりも、先人のすぐれた作品をお手本にするのが一番。次のような例句を味わってみて下さい。
  野を焼けば焔一枚立ちすすむ   山口青邨
  走る野火とどまる野火や阿蘇の牧 有働木母寺
  古き世の火の色うごく野焼かな  飯田蛇笏
 三句それぞれに作者の個性が発見した野火の状景が描かれています。青邨句は野火が一枚の板のように燃え進んでゆくさまです。木母寺句は野焼の火がある部分は走るような勢いで、またある部分ではとどこおっているという眼の利いた表現がなされています。蛇笏句は前二句とはやや趣きが異なって、野火というものを主情的に捉えています。
 いかがでしょうか。ただし、こう言ったからといって、原句がまったく悪い訳ではありません。先にも述べましたように一句のリズムなど勢いがあって堂々としたものです。さらに次の段階を目指す参考として付言しました。通念や常識を下敷きにした把握を抜けて、その時その場の実感の在り処をしっかりと見極めること、それを大事にしていきましょう。




《原句》

  根を下ろすつひの栖や梅の里

 人生の最後をこの地で迎えるのだという感慨が述べられています。生活に彩りを添えてくれる梅の花の設定が、作品にそこはかとない華やぎをもたらすかのようです。
 一句の中で意味の重複する部分がありますから、その点を工夫してみましょう。
 中七と下五の関り方でいえば、(つい)住処(すみか)イコール梅の里である、とのオチをつけた表現になっています。理屈っぽく、説明的に感じられるのはそのせいです。むしろ意味する内容をはっきり言い切ってしまった方がすっきりします。〈梅の里が終の住処である〉というふうに。
 次に、「根を下ろす」とは、土地に根付いて生活するとの意ですが、「つひの栖」で充分に感じられるのではないでしょうか。
 それやこれやを考え合わせて、

《添削》

  この里がつひの栖や梅匂ふ

 梅の香に包まれながら感慨に浸っている、しみじみした趣きが出るかと思いますが。
 せっかく〈梅〉という季語を使っているのですから、「里」を説明するだけに用いるのではなく、馥郁たる香で幸福感が漂うように印象させたいものです。




《原句》④

  春の雪もつれし糸のほぐれたり

 「もつれし糸のほぐれたり」とは、実際に絡まり合った糸の様子を詠んだものか、それとも人間関係などの悩みを詠んだ心理の比喩的表現か迷いました。
 前者とすると、これだけではどんな場の、どういう糸なのか、場面の描き方に不足があります。後者の場合はさらに分かりにくい。状況が浮かんでこず、思わせぶりな表現に終始しています。こういう靴を隔てて痒いところを掻くような詠み方はまず成功しません。俳句の短さは端的な表現にこそ力を発揮するものだと考えます。
 二様の解釈を念の為にしておきましたが、作者にとって心外かもしれない後者の解を思うのは、前者の場合の状景描写が簡単すぎるせいでもあります。そこをもう少し膨らませてみましょう。

《添削》

  糸巻にもつれし糸や春の雪


 上五は〈針箱に〉としてもよさそうです。「ほぐれ」るところまでを言わずとも、一瞬の場面を示して景を鮮明にとどめます。
 針や糸のような裁縫の道具類は女性に縁の深いものですが、そのような題材に取り合わせた「春の雪」の季語は、匂いやかな風情を誘ってくれます。




《原句》⑤

  ライン際にボール打ち込む鬼やらひ

 テニス、バレーボール、バドミントンなど、いろいろな球技がありますが、鑑賞者によって何を思い浮かべるかは違いのあることでしょう。私の好みからはテニス。一対一のボールの動き、それもバドミントンでは少々せわしない。バレーボールは人数が多すぎて空間が見えてこない。そんなところからもテニスを想像したくなりますが、どれであってもボールがすぱっと決まった時の勢いを感じ取れば充分でしょう。
 さてそこで問題は「鬼やらひ」。これはまた唐突な季語が付けられたものです。節分の豆撒きが、上五中七のフレーズとどう通じ合うのか理解に苦しみます。たまたま節分の日ということだったのかもしれませんが、これは殆ど無意味です。まさか豆撒きの状況がボールを打ち込むようだと言いたい訳ではないでしょうから、ここは是非とも一考を要します。
 上の措辞を生かすには、あまりこまごまと具体的な言葉であるより、時候・天文か、せいぜい地理の項目から季語を探してはどうでしょう。
 節分の次の日は立春。取り敢えず、この季語を採用して、

《添削》

  ライン際に打ち込むボール春立てり
  ラインぎりぎり打ち込むボール春立てり


 〈春立てり〉と動詞形にしましたので、中七の語順を変えて名詞でとめました。


(c)masako hara

              







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