火の歳時記
片山由美子

 
   【火の路】 第12回 NO12 平成20年4月1日
 『火の路』の話はそろそろ終ることにするが、松本清張が認識していたペルシア人とゾロアスター教の中国から日本への流れについてまとめておきたい。中央アジアにいたペルシア人は交易を重んじた唐初期の朝廷に厚遇され、長安などの特別な地域に住むことを許された。そして「李」や「安」の中国名を名乗ることが許された。「李」は皇帝の姓であり、その名を与えられていたこと自体に彼らの地位の高さが示されている。奈良に住んでいたペルシア人も「李密翳」という人物だったという記録がある。
 唐では、則天武后が「けん教」あるいはマニ教(ゾロアスター教から発展した宗教)信者だったといわれる。吉備真備らとともに唐へ渡った僧に玄昉がいる。法相宗を伝えた僧として知られるが、清張はこの人物に関心をもった。七一六年からほぼ二〇年間唐にいた玄昉は、さまざまなものを日本へ持ち帰っている。ものだけではない。けん教が最も盛んだった時代の唐に滞在し、法相宗とともにけん教も伝えたのではないかというのが清張の推理である。そして聖武天皇夫人の光明皇后に、則天武后のことを語ったのではないかと考えるのである。「光明」を名乗ったのは則天武后への憧憬と帰依の現れであり、その名の由来が中国でけん教として浸透していたゾロアスター教にあるというのは、小説の中の話とはいえ、説得力をもつ。正倉院収蔵のペルシア系器物は、聖武天皇の冥福を祈って光明皇后が収めたことは周知の事実だが、そうしたものを所有していたこと自体が興味深い。
 唐に住んでいたペルシア人たちは魔術を行うと言われていた。それは錬金術や医術に長けていて、薬草の知識も豊富だったからである。麻薬も使っていた。中国に帰化したペルシア人の医者・華陀は、インド大麻と思われる麻酔を使って手術をした記録が残っている。日本にけん教が入ってきたとしたら、この麻薬を作る知識ももたらされたのではないかと清張は考えた。奇行が伝えられる斉明天皇はけん教を信仰し、儀式で用いられる麻薬に類するものを愛用していたのではないかと想像をふくらませる。中国ではけん教の儀式の際に司祭である牧護が眩術を使うといわれた。これは麻薬による幻覚だったことを思わせるのである。そうした薬物が日本に入っていたというのが『火の路』の重要な仮説の一つであり、酒船石は麻薬を製造するために使われたのではないかという。
 このような大胆な仮説に基づいて『火の路』は書かれたが、その魅力は聖なる火を守り続けるゾロアスター教の神秘性と相俟って、通常の小説では味わうことのできない興奮をもたらす。歴史から置き忘れられたようなゾロアスター教の話からこの連載を始めることになったが、図らずもこのたび講談社選書メチエの一冊として青木健著『ゾロアスター教』が刊行された。あらためてこの本を読んでみたいと思っている。ゾロアスター教に興味を持たれた方にもおすすめしたい。
  禁制の火の色奈良の夕焼は    清水 径子
   
 
 (c)yumiko katayama
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