NO42 平成20年11月4日 片山由美子 |
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【火の歳時記】第9回 「火恋し」 |
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旅十日家の恋しく火恋し 勝又一透 多くの季語のなかで、よくもこんなにうまいことをいったものだと感嘆するものがある。「火恋し」もそのひとつだ。朝夕にわかに気温が下がってきて、何か一枚羽織らずにはいられなくなるような晩秋の寒さをよく伝えている。山本健吉は文藝春秋の「季寄せ」の解説で「十月にはうすら寒さを感じ、朝晩は火が恋しくなる」と述べている。東京中心の季節感ではあるが、はっきり十月といっているところに実感がある。それも下旬であろう。 この「季寄せ」だけでなく、項目として立てている歳時記の多くは、傍題として「炭火恋し・囲炉裏恋し・炬燵恋し・炉火欲し・火鉢欲し・炬燵欲し」なども挙げているが、季語としては単に「火恋し」といったほうが漠然とした感覚をよく表しているように思う。「恋し」といっているだけで、実際には目の前にないのである。赤い火のぬくもりを想像しながら、手足の冷えてくる心もとなさ、わびしさに耐えている。耐えるというほど深刻でもないのだが、その心理が晩秋の季節感に結びつく。 この季語が使われるようになったのはそう古いことではないらしい。近代以降、大正、あるいは昭和初期かもしれない。ひょっとしたら、「夜の秋」のように虚子の選によって認知されるようになった季語かもしれないと想像するのだが、少なくとも「ホトトギス雑詠選集」には句が挙げられていない。しかし、ことばとしての味わいは「夜の秋」に匹敵するように思う。「夜の秋」は近代になって使われるようになった季語のベストワンと断定しても異論はないだろう。晩夏の季語として「夜の秋」ということばを生み出した感覚、これには驚嘆するのみである。「火恋し」はそれに次ぐといってよい。 冒頭の句、「家の恋しく火恋し」と「恋し」を重ねていることに意味がある。家にもまだ帰っていないのである。わずか十日くらいでといわれそうだが、それでも早く家に帰りたいと思っているのは七日目か八日目くらいのことだろう。あと二三日もすれば家にいるはずなのに恋しがっている、それと同様に、間もなく暖房を出すはずなのに、それまでの数日間を嘆くような火の恋しさである。両者の心理的なバランスが俳句の味わいを生みだしている。 火恋し雨の宿りも宇多の奥 上田五千石 指貫をはづしにはかに火の恋し 吉田静子 四音で言い切るかたちが扱いにくさを感じさせるのかもしれないが、もっと使ってほしい季語である。 |
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(c)yumiko katayama | |||
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