火の歳時記

NO43 平成201111


片山由美子

 
  【火の歳時記】第10回 「松明あかし」


 十一月の第二土曜日の八日、福島県須賀川市の五老山で「松明あかし」と呼ばれる火祭が行われた。この行事は四百年以上の歴史をもつものである。
 天正十七(一五八九)年六月、会津黒川城を滅ぼした伊達政宗は、その余勢をかって須賀川城も攻めようとしていた。じつは、このときの須賀川城主は二階堂盛義の後室大乗院で、大乗院は正宗の伯母にあたる女性であった。正宗の暴挙に怒った家臣たちは、手に手に松明を持って結集し、須賀川城を命を賭して守ることを決議すると、その覚悟を大乗院に伝えた。十月二十六日、遂に合戦の火蓋が切られる。すると、こともあろうに、前々から正宗に内通していた重臣守谷筑後守が城の本丸の風上にある二階堂家の菩提寺、長禄寺に火を放ったのであった。火はたちまち燃え広がり、家臣たちの決意もむなしく大部分が城とともに焼け死んでしまった。文治五(一一八九)年以来四百年にわたって須賀川を治めてきた二階堂家の命運はここに尽きたのである。「松明あかし」は、この戦で命を落とした人々を弔うために行われるようになったものであり、以前は旧暦十月十日だったが、その後新暦の十一月の第二土曜日となった。五老山は、天正九年、三春城主田村清顕方と須賀川城主二階堂盛義の老臣五人が和睦交渉をしたことからそう呼ばれる。
 さて、松明あかしに用いられる松明は長さ十メートル、重さは三トン以上ある。この日、法被姿の若者百五十人が担いで街を練り歩いたあと、五老山に担ぎ上げる。こうした松明が何本もあり、これが集まったところで同時に燃やすのである。それに先立って白装束の御神火隊も五老山へ向かう。御神火台に火を点し、その火で松明を燃やすのである。先日、山頂に集まった松明は三十本あまり。次々に点火されると天を焦がさんばかりに燃え盛り、勇壮な行事はクライマックスを迎えた。
 この行事には三五〇名もの武者行列も出る。
また、松明太鼓が奏され、見事な撥捌きを披露する。天地に響きわたる大小の太鼓はこの行事に欠かせない。前回の鞍馬の火祭に対し、東の火祭というにふさわしいのがこの松明あかしであり、季語として認知されるに至っていないのは残念である。
   

 
 (c)yumiko katayama
前へ 次へ 今週の火の歳時記 HOME