火の歳時記

NO45 平成201125


片山由美子

 
  【火の話】第4回 「燐寸」


  秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな       中村 汀女

 季節は少々後戻りするが、冷たい雨が降る日にはこの句を思い出す。「瓦斯が飛びつく燐寸」──これが懐かしい、と思えるひとはいま日本の人口の何割を占めるだろうか。平成生れの成人が誕生しているのだから、こんな体験をしたことがない人のほうが多くなるのは時間の問題である。ガス焜炉に火をつけるのにちょっとしたコツが必要だった時代。コックを開いてからマッチを擦ったのではガスが出すぎて危ない。当然、マッチの火をつけてからガス栓を開くことになり、ガスが噴き出してワッと火が点く瞬間はまさに「瓦斯が飛びつく燐寸かな」である。すでに軸に火が燃え移っているマッチだから、それを持っていると着火の瞬間、手まで炎に包まれそうになる。これを汀女ほど見事に俳句にしたひとはいなかった。誰もが日々繰り返していることでありながら、ほかのひとはかくも鮮やかな句を作り得なかったことに驚くだけである。
 さて、自動点火のガス焜炉が登場するまで、マッチは家庭において重要な役割を担っていたわけであるが、このマッチというものはいつごろ作られたものなのだろうか。そもそも、燐寸の原料である燐はどのように発見されたのだろうか。じつは、これを見つけたのはドイツの錬金術師ブラントというひとで、一六六九年、つまり江戸時代の初めころのことだった。その後、一八〇五年にはフランスで即席発火箱というマッチの原型が作られ、一八二七年にはイギリスで摩擦によって発火する現在のマッチに近いものを発明、一八二九年には販売を始めた。一八三六年にはアメリカの火薬製造業者が黄燐マッチの特許を取り、製造を開始した。日本へ伝わってきたのは一八三〇年代で、一八三九年にドンドロ附木、吹弾子(雷こうマッチ)なるものが作り出されたという記録がある。
 その後、さまざまなマッチが試作されたが、一八七三(明治六)年、盛岡藩が士族授産施策としてわが国で最初のマッチ工場を造って生産を始め、明治十八年まで操業した。これと並行して日本各地で個別の研究開発や生産が始まり、輸出までしていた。しかし、明治十五年には過剰生産に陥り、同業組合を作って生産調整を始めた。やがて商標法を施行するなど、マッチ業界の整備が進み、産業として発展したのだった。
 ところで、有名なアンデルセンの『マッチ売りの少女』が書かれたのはいつ頃のことかご存知だろうか。じつは一八四八年、つまり日本では明治になる二十年前のことなのである。そんなに古い話だとは思わなかった。

  マッチなき暮しいつより秋時雨        橋本榮治
   

 
 (c)yumiko katayama
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