火の歳時記

NO51 平成21120


片山由美子

 
  【火の歳時記】 第16回 振袖火事

 歴史に残る大火事というのがある。日本で一番有名な火事といえば明暦の大火、俗にいう「振袖火事」だろう。これは明暦三年(一六五七)に江戸で起きたもので、死者は何と十万人におよんだ。その年の一月十八日(旧暦)のことである。
 この火事が「振袖火事」と呼ばれるのは、つぎのような話が伝えられていることによる。
上野の豪商大増屋におきくという娘がいた。おきくは花見のときに見かけた美しい寺小姓に一目ぼれしてしまい、寝ても覚めても寺小姓のことばかり考えていた。小姓が着ていた着物と同じ柄の振袖まで作らせたほどである。そして、明暦元年の一月十六日に恋の病で死んでしまったのである。哀れんだ両親はその振袖を柩に掛けてやった。ところがその振袖は、湯灌場で働いていた男たちによって古着屋へ持ち込まれた。そして本郷の麹屋吉兵衛の娘お花の手に渡った。それを着たお花はなぜか病に倒れ、明暦二年の一月十六日に亡くなってしまったのである。同じようにまた古着屋へ売られた振袖は、つぎに麻布の質屋伊勢屋の娘おたつのものとなった。ところが、おたつもまた病にかかり、翌年の一月十六日に息絶えてしまった。
 これを知った湯灌場の男たちは恐ろしさのあまり、本郷丸山にある本妙寺の住職に相談した。事情をを知った住職は、死んだ娘たちの親を集めて振袖の供養をすることにした。そして明暦三年一月十八日の朝、経を上げながら振袖を火に投じたところ、突風が吹き起こって炎に包まれた振袖が飛んでゆき、本堂に火をつけてしまったのである。折しも江戸は八十日も雨が降っておらず、その火は乾燥しきった町にたちまち燃え広がって行った。
 本郷から湯島へ、そして神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から日本橋へと火事は広がり、翌日まで燃え続けた。江戸城は本丸天守閣まで消失し、北の丸の大名屋敷がかろうじて残っただけだった。これが振袖火事といわれる所以である。その模様は「むさしあぶみ」という資料に絵入りで記録されている。(東京都中央図書館のHP参照)
 ところで、中央線の吉祥寺という名もこの火事に関係している。現在、駒込にある吉祥寺(きっしょうじ)は、明暦の大火以前は水道橋にあったもので、火事のあと、この寺の門前町の住民が移住し新田開発したのがいまの吉祥寺なのである。当時はいまの水道橋も吉祥寺橋と呼ばれていたという。ふつうは寺の名の街や駅は、そこにある寺の名がとられているが、吉祥寺には吉祥寺という寺があったわけではないのである。



   

 
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