火の歳時記

NO71 平成2169


片山由美子

 
  【火の歳時記】第30回 鵜篝

 夏の川で行われる漁、というより観光のひとつになっているのが「鵜飼」である。捕獲した海鵜を馴らして鮎を獲らせるものである。岐阜の長良川がもっとも有名だが、同じ岐阜県関市の小瀬川で行われるものも共に皇室の御料鵜飼となっている。鵜飼で獲れた鮎が珍重されるのは、鵜に呑み込まれて食道で瞬時に気絶するため鮮度が高いからだという。
 岐阜のほか山梨県笛吹市の笛吹川、愛知県犬山市の木曽川、京都の宇治川と大堰川、和歌山県有田市の有田川、広島県三次市の馬洗川、島根県益田市の高津川、山口県岩国市の錦川、愛媛県大洲市の肘川、福岡県朝倉市の筑後川、大分県日田市の三隅川でも鵜飼が行われている。このうち笛吹川と有田川では「徒歩鵜(かちう)」といって舟を用いず、鵜匠が一羽ないし二羽の鵜を引いて浅瀬に入り、漁をする。また、高津川では手綱をつけずに漁を行うところから「放し鵜飼」と呼ばれる。馬洗川では胴体の白い川鵜を使うのが特徴である。多くは天皇や大名に鮎を献上させるために始まったもので、鵜匠は手厚く保護された。前期の地域以外にも古くは鵜飼を行っていたが、明治維新後、伝統が途絶えてしまったところが多い。
 鵜飼の歴史はかなり古く、記紀の時代に遡る。中国の史書にも、隋使が日本を訪れ珍しい漁法を見たという記録が残っている(『隋書』開皇二十年)。その後、中国でも鵜飼が行われるようになったが、使う鵜が日本ではほとんどが海鵜であるのに対し中国は川鵜であり手綱をつけない。また、日本では鮎だけを獲らせるが中国ではさまざまな魚を獲るなどかなり違いがあるところから、両者は別々に発達したものではないかと考えられている。ヨーロッパでも十六世紀末から十七世紀初頭のイギリスとフランスで鵜飼が行われた。しかし、これは日本や中国の方法とはだいぶ違うのでまったく別に発生したものである。さらに驚くのはペルーの遺跡から鵜飼と見られる様子を描いた土器が出土している。これは日本より百年も古い五世紀ごろのものと思われ、たいへん興味深い。
 さて、代表的な鵜飼の模様だが、用いられるのは平底の小舟である。その舟に鵜匠が一人、中乗一人、艫乗二人の四人が乗り込み、鵜匠は手綱をつけた五羽から十羽の鵜を操る。舟の舳先には篝火を焚き、光に集まってきた鮎を鵜が捕えるというものである。ただし鵜は喉に紐を巻かれているため、小さなものは胃に入るが、ある程度以上のものは呑み込めない。これを鵜匠が吐き出させるのである。
 上流の闇の中から火の粉をこぼしながら下ってくる舟は鵜飼の象徴であり、古くからこの「鵜篝」が俳句に詠まれている。ところで、鵜飼は闇夜ならではの漁法であるところから月夜を嫌う。そこで上弦の夜は月の入り後、下弦の夜は月の出前に舟を出す。鵜飼舟は十二艘が二手に分かれて下るが、下流で合流して漁陣を張る様は圧巻で「総がらみ」と称している。
 鵜飼が行われるのは鮎漁の解禁の期間となり、五月の初旬から十月半ばまでである。

  いさり火や鵜飼がのちの地獄の火         貞 徳
  葬の火の渚に続く鵜舟かな            丈 草
  鵜のかがり消えて長良に灯の一つ         士 朗
  鵜篝のおとろへて曳くけむりかな         飯田蛇笏
  鵜篝のあとより何か闇をゆく           山口誓子
  鵜松明川面の闇を切りすすむ           鷲谷七菜子
  鵜じまひの鵜の火を落す川迅し          西村公鳳



   

 
 (c)yumiko katayama
前へ 次へ 今週の火の歳時記 HOME