感動を表現する推敲の仕方
石田郷子  いしだ


第28回 2009/08/23   


  原 句  新蕎麦を打つ鉢巻きや湯のたぎる

 新蕎麦は、その秋初めて収穫した実でつくった蕎麦を言う場合もありますが、本来はまだ熟し切っていない蕎麦の実でつくった蕎麦のことで、秋の季語になっています。
 この句はその新蕎麦を打っている情景を生き生きと描写しています。蕎麦打ちの人が鉢巻きをしていて、そのかたわらには湯がたぎっている……もう準備万端という厨房が見えてきます。
 私は即座に次のように直してしまいました。

  添削例1  新蕎麦を打つ鉢巻きや湯のたぎり

 原句はやや無造作な感じに思えたのです。
 句の途中を「や」で切ったときは、末尾を連用形にすると、一句に余韻が生れ、韻文らしくなります。
 ただ、この句の場合は「たぎる」を終止形でなく連体形と受け取ると、ここに「湯のたぎっているところの……」という省略があり、湯のたぎっているところの新蕎麦」を打っている、というふうに上五に響くようにも読み取れますから、韻文としての余韻が感じられるのです。
 もう少し推敲して、こんな形はいかがでしょうか。

  添削例2  新蕎麦を打つ鉢巻きや湯はたぎり


 

  原 句  裸婦像の手のひらにをる小鳥かな

 秋になるとさまざまな鳥たちが移動しはじめます。山奥にいた鳥が人里に下り、北国の鳥が南へ、また春や夏に南方から渡ってきた鳥は南へと海を越えるものもあります。北国から日本に、あるいは深山から人里に来る「小鳥」は秋の季語です。「小鳥来る」と表現することが多いのですが、「小鳥」だけでも季語です。
 この句は小鳥の愛らしさにふさわしい情景ですが、「をる」というと小鳥の敏捷さからしてやや時間が長すぎる気がしました。
 簡単にこうしてはいかがでしょう。瞬間を捉えた方が句が生き生きとします。

  添削例  裸婦像の手のひらにのる小鳥かな




 水平線

(c)kyouko ishida
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