京都太秦の広隆寺の牛祭は、もとは九月の十二日に行われていた。現在では一月遅れで行われる。正確には広隆寺境内の大避神社の祭である。そしてこの祭には四天王と呼ばれる鬼と牛に乗った摩多羅神が夜に登場し、拝殿の回りを三周したのち、祖師堂に向かって祭文を読み上げる。この祭文が実は祭文らしくない奇妙なもので、それに対して見物人たちがさまざまに悪口を浴びせかけるのがこの祭を特徴づけている。
この祭の主役と思われる摩多羅神は、慈覚大師が中国から勧請したとも、恵心僧都が夢告によって広隆寺に詣でて念仏を修するにあたって勧請したことに始まるとも言われている。いずれにしても仏法の守護神であり、中国から渡来した異神なのである。
この摩多羅神を描いた図像が比叡山や岩手県の平泉毛越寺、栃木県の輪王寺などに伝えられている。輪王寺のものは髭をはやし、左手に鼓を持った摩多羅神が竹の枝の下で笑いを浮かべており、頭上には北斗七星が描かれている。摩多羅神の前には二人の童子が肩に笹竹と茗荷を負って踊っている。摩多羅神が北斗七星の化身もしくはそれと深い関わりがあることが暗示されており、手に鼓を持っていることや童子たちが舞い踊る姿で描かれていることは歌舞御曲、芸能と関連する信仰の存在を主張するものだろう。
実はこの摩多羅神は単に中国の神が仏法守護のためにだけ渡来したのではなく、大寺院の本堂の後方、後戸と呼ばれる場所に密かに祀られ、法会などに際して行われる芸能を守護する役割を背負わされていたことが芸能史の研究から明らかにされている。
この神が提起する問題は、芸能を伝え、寺社の儀礼の具体的な担い手でもあった人々の精神世界へとつながっていることを服部幸雄が粘り強く追究してきた(『宿神論―日本芸能民信仰の研究』、二〇〇九年)。一方、民俗研究との関わりからは摩多羅神が、後戸という独特の空間に祀られてきたことに注目が集まってきた。異国の神とはいえ、仏法の守護という役割を与えられているにもかかわらず、寺院の正面ではなく、秘められたかたちで伝えられてきたことが重要だという指摘である。高取正男の考察によれば、寺院の後戸は民家における納戸に類する空間であるという。納戸とは家族とりわけ夫婦のみのプライベートな場所であって外来者からは秘されるところである。そして中国地方の山間部ではこうした場所に稲作の神、田の神といった家の繁栄につながる神霊が祀られてきた。
また家屋の深部に位置して客をもてなす空間が座敷であるが、この座敷にはザシキワラシ(座敷童子)がひそむと東北地方では語り伝えられていた。ザシキワラシは、その名が示すように、ふだんは使わない座敷空間の奥深くに宿っていて気配だけがする。それが、はっきりと姿を現すのは、その家に変事があるときであった。座敷は客を招じ入れるだけの空間ではなく、家の盛衰にかかわる存在の居場所ともされてきたのである。
高取はこうした納戸や座敷に関する民俗データをもとに、摩多羅神だから後戸に祀られたのではなく、民家の納戸にあたる寺院のなかでも特異な聖的空間である後戸が摩多羅神という独特の神霊を招き寄せたのではないか、と推察している(「後戸の護法神」大谷大学国史学会編『日本人の生活と信仰』、一九七九年)。
牛祭に奇妙な姿で登場する摩多羅神は、特異な様子やその勧請の歴史だけが重要なのではなく、日本人の建物や住空間に関する感覚にも連なる存在としてもとらえていくことができるのである。
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