神々の歳時記     小池淳一
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2009年9月10日
【25】芋名月と豆名月

 旧暦の八月十五日は月見の晩である。その時に供えるものの代表が芋であることから、民俗学では各地で聞かれる古風な名称を尊重して、十五夜を芋名月といい、同じく九月十三日を豆名月とか栗名月などと称する。もちろん、芋や豆だけではなく、団子や小豆飯を作るのも広く知られた習慣である。
 楽しいのは、この月見の供物はいったん供えられたあと、子どもたちが自由に取って食べてよいとされていたことである。子ども時代の心おどる記憶として十五夜を思い出す人は少なくないだろう。古くは子ども、大人を問わず、畑の作物や果実をこの晩ばかりは自由に採ってもよい、とされていた地域が多く、十五夜や十三夜は何らかの祝祭の感覚が伴っていたことを推測させる。澄んだ空気の中に浮かぶ月の美しさもさることながら、地上の作物の稔りを祝う感覚がそこにはある。
 長崎県南松浦郡樺島ではかつて八月十五日の晩をイモメギリと言って、この日に鍬を使わずに手で芋を掘ることになっていた(『離島生活の研究』、一九六六年)。鳥取県西伯郡大高村岡成で調査を行った天野重安は、この村でも芋名月という他にイモタンジョウという言い方があったことを記録している。そしてこの日に初めて畑から里芋を起こすものだったという(「岡成物語(二)」『民族』四巻五号、一九三二年)。
 普段とは異なるやり方で収穫をすることは儀礼としての意味合いがあったことを示し、最初にとれた収穫物はそれらを見守り、育ててくれた神に供えるものであっただろう。つまり十五夜と十三夜は月を愛でるというよりも、畑作の神を祭り、収穫に感謝する行事であったことが推測できるのである。
 一方、長野県北安曇郡では十三夜を「小麦の月見」と言って、この晩に天気が良ければ来年は小麦が豊作だと伝えていた(信濃教育会北安曇部会編『北安曇郡郷土誌稿(第三輯・年中行事篇第一冊)』、一九三一年)。翌年の作物の出来不出来をうかがい知る晩でもあったわけである。そうすると月見は単なる鑑賞ではなく、来る年の豊凶を占う行為でもあったことになる。
 われわれの先祖が月を見上げる感覚は、感傷や美的な趣味というよりも生活の営みの切実さを含んでいたのかもしれない。
 古く『竹取物語』の結末近く、かぐや姫が月を見て泣く場面で「月の顔見るは忌むこと」と戒められるくだりがある。やがては月に帰ってしまう運命がそこに投影されているのだが、月の光を理由もなしに見ることをはばかる当時の感覚がなければ、こうした言葉がかけられることはなかっただろう。古代の貴族社会における月を見ることのタブーと民俗行事における月見の感覚とをつなぐものは何なのか、改めて考える必要があるだろう。


  提灯は月見団子の引換所   月岡片々子




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