神々の歳時記     小池淳一  
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2010年4月15日
【42】春のゆらめき

 ふらここ、あるいは鞦韆―秋千とも書き、「しゅうせん」と読む―といってすぐにブランコのことだとわかるのは、俳句のたしなみのある人に限られてしまうかもしれない。そしてわかってしまえば、この子供時代に男女を問わずに楽しんだあの感覚が蘇る人も多いだろう。季語としては春に配され、これもなんとなくわかるような気がする。
 古代ギリシアにはブランコの起源を語る伝説がある。葡萄酒の製法を酒神であるバッカスから教えられたイカリオスはこれを人々に振る舞っていたが、酒の酔いを毒を盛られたのだと勘違いした男によって殺されてしまった。イカリオスの娘のエリゴーネはそれを悲しんで木に縄をかけ、首を吊って死んでしまった。これがブランコの起こりで、エリゴーネの真似をすれば、悲劇のうちに死んだ霊魂を慰め、罪が贖われるというのである。
 実際はギリシアで祭りに際して、木に縄をかけてブランコをする習俗があったことから逆にこうした悲壮な伝説が生まれたのかもしれない。ギリシアの祭りには妙齢の婦女子がブランコをする習慣が広くあったらしい。
 このギリシアの伝説をはじめ、世界各地のブランコの歴史を考察したのは、京都帝国大学で西洋史の教鞭をとった原勝郎の「鞦韆考」(『日本中世史』、一九六九年)である。原はこのギリシアの伝説を手はじめにローマを経由してヨーロッパ世界へのブランコの広がりと逆に中国への伝播について文献を博捜して論じている。
 原によると中国にブランコが伝わったのは、北方からの移入らしく、唐の時代になると、日中のみならず、夜間に月光のもとで行われたことが詩にうたわれているという。若い女性がブランコにゆられる姿が春の夜の雰囲気にふさわしいと評されている。
 日本の文献にブランコが登場するのは平安時代の初期で、やまとことばで「ゆさはり」といったらしい。この遊び以前の遊びのような行為が日本文化のなかでどういった意味を持ったのかはよくわからない。「ゆさはり」と鞦韆とが全く同じものだったのか、あるいは、本来は異なるものが結びつけられたのか、記録はほとんどなく、想像することすら難しい。
 時代が遙かに下って近世期の記述であるが『房総志料』には、上総国夷隅郡の万喜城の麓の妙見の祠にまつわる祭礼に「鞦韆の戯」があったと述べられている。「万喜城の麓に妙見の神祠あり、秋社に鞦韆の戯あり、太平記の古俗と見ゆ。土俗其名をつくまひと云。(中略)つくまひといふは、長さ凡四丈七八尺程の柱を二本建、白布にて包、上を十の字の形に作り、木綿綱を二通り張、これをたぐりて舞ふ。」というのがその記事である(『房総叢書』、一九一四年、所収)。あるいはこの地方のつくまいを知識人が鞦韆と表現したのかもしれない。
 つくまいは現在でも千葉県野田市、旭市、多古町、茨城県の龍ヶ崎市、秋田県天王町などに伝わっており、中央アジアをルーツとする散楽が起源ではないか、と推察されている民俗芸能である(龍ヶ崎市歴史民俗資料館『利根川流域のつく舞』、一九九四年)。綱を用いて軽業、曲芸を披露するその内容をふまえると、意外にふらここ、鞦韆の類と似ているといえるだろう。
 神事や祭礼にまつわってこうした綱を用いた芸能が行われる習慣があったとすると、ブランコも単なる遊びではなく、もともとは神霊を招く作法のようなものがその起源だったのでは、という気もしてくる。こどもの頃に一心にブランコを漕ぐことで得られたあの感覚は、単なる遊び以上の何ものかにつながるものであったのである。

 


   ふらこゝや山鳥の尾のしだり帯   佐藤春又春







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