神々の歳時記     小池淳一  
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2010年11月1日
【55】福の神の歴史

 福の神といえば、恵比寿と大黒とがまず思い起されるだろう。どちらの神も秋から冬にかけての時期に祀られることが多いが、その出自は恵比寿が漁村で大漁をもたらすとされてきたのに対して、大黒は農業地帯で豊作にまつわる神とされてきた点に顕著な対立をみてとることができるかもしれない。
 代表的な福の神である恵比寿と大黒とが、それぞれ海の幸と陸の幸とを象徴していることは、日本人の幸福に対する感覚の源流に海産物と農産物の恵みがあることを示しているのであろう。農村における恵比寿講はその名残として位置づけることが可能である。
 神道では恵比寿を事代主命とし、大黒は大国主命と解している。全国各地で講の行事として恵比寿や大黒を祀ることは盛んに行われてきたが、祭日が一定していないのはそれだけ多様な祈りや願いを長年にわたって受け止めてきたためではないか、と思われる。
 一年間の間についた嘘を祓うという誓文払いの行事は商人の祭りであり、世渡りのためにやむを得ずつく嘘を浄化する意図があった。それが関西で旧十月二十日前後に行われるのは、恵比寿講の影響であろうと坪井洋文は推測している(「嘘のフォクロア」『民俗再考』、一九八六年)。農村においては十二月八日が嘘を祓う日であって、特に中部地方ではムヒツ(無実)講と呼ばれ、ムジツ汁を作る習慣などがあった。嘘を祓うことで心身を浄化し、新たな年を迎える支度をしたのであろう。
 漁撈の神であった恵比寿が商業の神になっていった経緯は必ずしも明らかではないが、魚類の流通やそれに伴う交易活動が、恵比寿を商いをつかさどる存在に転化させていったことは想像できる。漁村の恵比寿信仰が素朴な石や寄り神のかたちをとるのに対して、都市部や農村に浸透した恵比寿像は烏帽子をかぶり、釣り竿と魚籠を携えた定型的な姿となっていることもこうした想像を補強する。
 一方、大黒はもともとインドの神で仏教に取り込まれて日本に伝来した。寺院の台所などに祀られ、食物をつかさどるものとされたが、インドにおいては悪しきものを倒す強力な戦闘力を持つ神とされており、初期の大黒天像は厳しい表情をしたものが少なくない。
 中世の大黒信仰としては、正月に大黒舞と称して家々を訪ね、祝福の文言を唱え、舞を舞う芸能が行われていたことが京都や奈良ではよく知られている。その前提として『渓嵐拾葉集』に興味深い記事がある。それは「大黒飛礫ノ法」というものであり、大黒が背負っている袋から如意宝珠を取り出し、礫として授与するという説であった。この記事に着目した丹生谷哲一は、こうした招福につながる呪物に対して礫という認識がなされていた点にインド以来の闘争神の性格が残されているのではないか、と示唆している(「山伏ツブテと大黒ツブテ」『検非違使』、一九八六年)。
 民俗信仰のなかでは家屋の中心となる柱を大黒柱と呼ぶように、生活とりわけ家屋とも深く結びついており、南九州ではデコッサアと親しみを込めた呼び方をしている。小野重朗によると田の神と習合していることも多く、鹿児島県の薩摩川内市周辺では小正月に新築の家や新婚の者がいる家に木や石で刻んだ大黒像を配り、代わりに供応をうける行事があった。これらの大黒は屋内の大黒棚に置かれ、家の繁栄をつかさどるとされていた(「大黒様」『民俗神の系譜』、一九八一年)。これらは中世の門付けの祝福芸としての大黒舞と直ちに結びつけることはもちろんできないが、大黒が時を定めて福を携え異界から訪れるという観念には共通するものがあるだろう。
 こうした行事や信仰には福の神がたどってきた長い歴史がそのまま多様な姿となって表現されているのであり、福というものをめぐる庶民の感覚をそこから汲み上げることも可能なのである。

   寺借りて夷市立つ漁休み   桑原志朗




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