神々の歳時記     小池淳一  
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2010年11月15日
【56】年越しの魚

 新年を迎えるための年越しの食膳に何らかの魚を必ず用意するのは、民俗的な正月の性格を考える上で重要である。こうした魚を年取り魚とか正月魚という。海岸の長い日本列島は魚に苦労することはないように思われがちだが、山深い地域では魚の入手に苦労した時代が長かった。冷凍設備がなかった時代には、遠距離を輸送する場合、干物にするか、塩漬けにしなければ魚を山間地に届けることはできなかった。西日本などで、御馳走のことをブエンというのは「無塩」の意であり、塩をしていない新鮮な魚がかつては得難いものであったことが刻み込まれていることばなのである。
 それはもちろん年の終わりから新年にかけての時期に限らず、一年を通しての問題であった。しかし、なんと言っても一年の締めくくりであり、新しい年を祝う料理に神経をはらい、年末が近づくと周到に準備をすすめるのが伝統的な習俗であった。年取りの魚は大まかに西日本が鰤で、東日本が鮭であるとされるが、地域によってはさまざまな魚が用いられた。そして海辺から遠ければ遠いだけ、その運搬にはさまざまな問題があった。
 中部地方、とりわけ長野県下では、正月に食べる魚として鮭と鰤の両方がみられる。いわば年取り魚の境界線がここに存在すると解釈されてきた。松本市では、正月に食べる鰤のことを「飛騨鰤」というが、飛騨すなわち岐阜県の高山では、「越中鰤」とか「能登鰤」と称していた。これらは鰤が水揚げされる地域をさしており、信州や飛騨では日本海の鰤がはるばる運ばれてきて大晦日から正月にかけての食膳を飾ったのである。
 秋から春にかけて、特に初冬の時期に日本海沿岸で獲れるいわゆる寒鰤の美味しさはよく喧伝される。この時期に日本海に響く雷鳴を「鰤起し」というのは、産卵のために南下してくる鰤の行動を気象条件と重ね合わせて理解してきたことを示している。
 しかし、正月に鰤が広く食べられるようになった時期についてはそう古いことではなかった可能性があることが指摘されている。渡辺定夫の「松本─糸魚川間の正月魚=ブリとサケの問題」(『民間伝承』三〇四、三〇五号、一九七五年)によると、正月に鮭を食べる習慣は近世中期に既に確認できるのに対して、鰤が大量に供給可能になるのは明治末期以降の大敷網漁の発展によって飛躍的に漁獲量が増大してからであるという。従って正月に鰤を大量に消費できるようになったのは近代に入ってからではないか、というのである。
 また鰤の神への供え方にも興味深い問題がある。長野県北安曇郡や南安曇郡では大晦日に鰤を丸ごと一尾買い、それを解体して年越しの支度をするが、その際に尾の部分は木の棒に切り口を下にしてさして、オイビスサマ(恵比寿様)に供える。そして身の部分は年神に供えるという。この調査を行った胡桃沢勘司は、近世に磨鰤(ミガキブリ)と史料に記載された鰤は頭や尾を切り落とし、骨を抜いて調理しやすく、また運びやすいように半身にしたものであったことを重視する。そして年神に身だけを供える用い方が古い時期に行われ、一尾丸ごと信州の奥地まで運ばれるようになったのは後のことであることから、尾の部分を恵比寿神に供えるようになったのは新しい祭祀のあり方であろうと推察している(「年取魚としてのブリ」胡桃沢勘司編著『牛方・ボッカと海産物移入』、二〇〇八年)。もともと漁撈の神であった恵比寿神が、山間の村においても信仰されていくなかで祭祀のありかたは揺れ動いていたのであろう。
 年越しの膳に供せられる魚は人間の口に入るだけではなく、神々にも捧げられるものであった。そうした魚に対する意識は、交通、運搬の民俗と深く関わりあいながら今日まで伝えられてきたのである。

   茶畑の空はるかより鰤起し    飯田龍太




 

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