『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏



 

 第二回  赤城颪に手作りの凧


 童謡にも「早く来い来いお正月、お正月には(たこ)揚げて、追いばねついて遊びましょ……」と歌われているから、凧は新年の季語と思いがちだが、歳時記の分類では、大方が春の季語としている。
 私が少年期を送った群馬県の片田舎は、真北に赤城山がそびえる。その赤城から吹き下りて来る赤城(おろし)(はだ)を突き刺すように冷たく、しかも強い。(うさぎ)の毛で作った耳当てをしていても耳たぶに霜焼けが出来た。向かい風には自転車はいっこうに進まない。ちょっとの隙間(すきま)でもあろうものなら、家の中に土埃(つちぼこり)が舞う。これほど嫌われものの赤城颪だが、子供達の凧揚げには、これほど理想の風はない。ということで、正月から春にかけて、当の子供達は凧作りに精を出す。
 紙一杯に「龍」の字を書いた凧や奴凧(やっこだこ)は売っていたが、小遣(こづか)いが少ないこともあって、子供達はもっぱら自分で作った。ありがたいことに、竹を細く割いて削った(ひご)なるものが売られていたから、これを凧作りや模型飛行機作りに利用できた。この籤をつなぐアルミ製の継ぎ手も売っていたので至極便利だった。
 しかし、これらの材料では、赤城颪に耐える凧は出来なかった。小学校も高学年になると皆、自分で竹を割いて籤を作った。現代と違って、男の子は、肥後守(ひごのかみ)と呼ぶ折りたたみのナイフか、切り出しナイフを持っていたからこれを使う。肥後守は力を入れると付け根から曲がりやすいので、竹を割くにはもっぱら切り出しナイフを使った。
 細く割いた竹を更に削るには技術が必要だった。左手に割った竹を持ち右手で削ったのでは表面にむらが出来る。そこで子供は、町中にある籠屋のおじさんの方法に(なら)った。まず左(ひざ)の上に手拭(てぬぐ)いか雑巾(ぞうきん)を敷き、その上に割いた竹を置いて、ナイフの刃をやや前方に向け、左手で割いた竹を後ろに引くと、表面が均等に削れる。
 平らな凧では風圧に耐えられないから、表面を反らさなければならない。竹は火に当てると反る性質があるので、七輪の火や蝋燭(ろうそく)の火に恐る恐るかざして曲げた。この曲がりを後ろで支えるのに、細い篠竹(しのたけ)を結んだ。後は和紙を張れば出来上がる。
 凧が揚がるかどうかを左右するのは、子供達が「中心合わせ」と呼んでいた作業だった。四隅に結んだ糸を束ねて、凧の真ん中で合わせることを言った。中心点が左右にずれていたら、凧は空中でくるくる舞ってしまう。真ん中に合わせても下過ぎると凧はすぐ落ちる。ほどよい中心点は真ん中より少し上だったように記憶している。
 ここで試し揚げになる。子供の作業だから精密に出来ていないので、すぐに落ちることが多い。こんな時は(そば)にいる上級生が中心点を直してくれる。よくよく揚がらない時は、両端か真ん中に一本尻尾(しっぽ)を付けると、嘘のように揚がる。この尻尾には新聞紙を細く切ったものか太めの麻の(ひも)を用意した。(のり)などは当時なかったから、ご飯粒(はんつぶ)(つぶ)して糊状にし、乾かないように器に入れて持ち歩いた。
 さて凧を揚げる段だが、太めといっても木綿(もめん)糸では赤城颪には耐えられない。土地で「かつ糸」と呼ぶ凧糸でなくてはならなかった。これも少ない小遣いでは買えなかったから、正月のお年玉で買えた時の喜びはひとしおだった。小さな糸巻きでなく、蚕の糸繰りに使う大きい糸巻きに、買ったばかりの凧糸をたっぷり巻いて出掛ける時などは、子供心に晴れがましい気分になった。
 凧糸で揚げても時々糸が切れて逃げることがあった。折角自分で作った凧だから、こんな時は芽のころの麦畑や桑畑をひたすら走って追いかけた。これは大人になって、俳句を知ってから覚えたことだが、中国では、凧の糸が切れて飛び去ることを「放災(ファンツァイ)」と呼ぶ。字義通り、災いを放す、つまり災いがなくなると考えたのである。災難除けになるのだから、中国ではわざわざ糸を切って飛ばす風習もあったし、逆に凧が落ちた家では、わざわいのお(はら)いをしてもらったという。また、逃げた凧が雲の中に入ることを吉兆(きっちょう)とした。ちょっと落語の落ちにも似てくるが、私達の手から逃げた凧の行く先の多くは、大人達から近づくことを禁じられていた避病院(赤痢やチフスなど伝染病の隔離病舎)の辺りだった。

  ※
 
 この稿の冒頭にも触れたが、凧を春の季語にしたことにも少し触れておかなくてはならない。これは意外にも二十四節気(にじゅうしせっき)(陰暦で、太陽の黄道上の位置により定めた季節区分)の「清明(せいめい)」とかかわってくる。少し難しいことを言うようだが、清明とは太陽の黄経(こうけい)が一五度に達したときを指し、陰暦の三月、春分(しゅんぶん)の日から十五日目に当たり、陽暦に直すと四月五、六日ごろに当たる。
 中国では、立春からこの清明までの六十日間を放箏(ファンチョン)(凧揚げ)の季節と呼んだ。なぜ凧に「(こと)」の字を充てたのかとも思われるが、中国では凧そのものを「風箏(フォンチョン)」とも言うから、凧の揚がる音を風の鳴らす箏と古人は感じたのかも知れない。話を元に戻すが、この六十日間を過ぎて凧を揚げると、思いがけない災いに()うとされる俗信がある。その理由はと言えば、風を司る神が、清明を過ぎると天に帰ってしまうからだとされる。
 「清明」によって否定された童謡の一節「お正月には凧揚げて」の弁明もしておかなくてはならない。その根拠は、江戸の風習の中で、凧上げはとくに藪入(やぶい)り(奉公人が主人から暇をもらい自宅に帰ること)の一月十五、六日に行われたことに由来しそうである。これに対し大坂では二月の初午(はつうま)(二月最初の(うま)の日)の日に行われた。今日の凧も、浜松の源五郎凧は五月に揚げるし、長崎の「はた」揚げは四月、新潟の白根市の大凧揚げは六月、沖縄に至っては十月に凧を揚げる。
 西欧へは、オランダを経由して十六世紀に伝わったというから意外に遅い。フランクリンが凧を揚げて稲妻の放電現象を観察した話は知られているが、この凧を何に見立てるかは国によって違う。英語では(とび)に、ドイツ語では竜に、スペイン語では彗星(すいせい)にと天空にあるものになぞらえるが、フランス語ではなぜか鍬形(くわがた)虫に見立てる。英語の鳶はkite(カイト)で、fly a kiteと言えば「凧を揚げる」になるが、go fly a kite となると「あっちへ行け」とか「つまらぬことを言うな」となって、凧にとってとんだ災難である。

  大学の空の碧きに凧ひとつ      山口 誓子
  家出づるにはや凧の尾の振れそめし  中村 汀女


(c)yoshihiro enomoto



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