『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏
2009/03/24


 

 第三回  奥会津の鳥追いと歳の神


 私がもう十五年ほど通い続けている福島県の奥会津には、全国各地で(すた)れてしまった民俗行事が数多(あまた)残っている。小正月の(さい)の神や鳥追い、それに雛流しや虫送りといった、割りと知られている行事はもちろんだが、「長虫よけ」(蛇よけ)や、火伏せ(火災予防)のための「愛宕(あたご)様の火」、「泣きの朔日(ついたち)」(お盆の始まりの日)といった民俗行事が、細々ではあるが、地域の人達の手によって守られている。
 やはりこの地に通って長い、畏友(いゆう)・黒田杏子さんと編んだ『奥会津歳時記』(平成18年、只見川電源流域振興協議会刊)に、これら民俗行事のうちの百五十項目ほどを拾いこんだ。
 少々前書きが長くなったが、今回の稿で取り上げようと思っているのは、一般に割りと知られている「鳥追い」である。いくら土地の事情を知っているとはいえ、奥会津とは六か町村(一昨年まで九か町村)を指し、その広さたるや佐賀県と同じで、しかも人口は二万二千とあれば、よほどの縁故でもない限り、その行事にすら辿(たど)り着けない。
 幸い私には、会津若松から只見線で一時間ほどの三島町との縁がある。四期目の町長とは助役のころからの知り合いだし、総務課長などは、黒田さんや私が奥会津入りする折は、運転手役を買って出てくれる企画課の職員だったから付き合いも長い。
 この町の小正月に、くだんの「鳥追い」と「歳の神」が行われ、この行事を見に私は、ほとんど毎年、三島町に入る。曜日に関係なく、「鳥追い」が一月十四日、「歳の神」は同十五日と決まっている。「歳の神」は「(さえ)の神」とも言い、全国的に行われる「どんど焼き」と同じであるが、この「歳の神」については、後段で詳述する。
 「鳥追い」の主役は子供なのだが、なにせ子供の数が少なくなって、かつて二十幾つかの集落で行われていた「鳥追い」も、今では二つの集落で行われるだけになった。そのため町では二月の十五日に行う「雪と火の祭り」の折に「鳥追い」と「歳の神」を併せて行うことになった。私はこの祭りにも今年参加した。
 その前に、現存する二集落で行われる「鳥追い」の様子を紹介しておく。まず戸数五十八戸の檜原(ひのはら)の集落では、前日の十三日までに少年団団長の家に子供が集まり、「鳥追い」に使う三十センチ四方ほどの紙の旗を作る。断っておくが、これらは全て子供だけの仕事である。日程も作業手順も子供、つまり土地の言葉で言う「子めら」に任せてある。この旗には、害鳥を追い払う言葉や絵がクレヨンや絵の具で描かれ、桑の木の枝や(かや)の棒に付ける作業を行う。
 当日の十四日の午後、地区の小中学生が「歳の神」会場に集まり、「シロ」踏みと称して主会場の雪を踏み固める。この「シロ」の意は誰に聞いても分からないが、私は勝手に雪の「シロ」か、自分達の城である「シロ」と思っている。
 夕食後、再び「シロ」に集まった小中学生は、前日描いた鳥追い旗を持ちながら、「シロ」を何度か回った後、集落の上から下へ、下から上へ練り歩く。この時の(はや)し言葉は、「今日はどこの鳥追いだ 長者様の鳥追いだ ホヤー ホヤー」で、(かね)の音に合わせて歌い歩く。「今日はどこの鳥追いだ」以下の文句はどの集落でも共通だが「ホヤー ホヤー」の後に続く言葉は集落によって違う。
 檜原地区と並んで現存する滝谷(たきや)地区のものも、十五日の歳の神の行事に合わせて行われる。ここの少年団は、小学四年生以上、中学二年生までの男子で組織し、あらかじめ地区内の年祝い(還暦、古稀(こき)喜寿(きじゅ)傘寿(さんじゅ)米寿(べいじゅ)など)の人のいる家を調べておく。
 少年団は、歳の神の前日の十四日夕方に会場に集まり、ここでは「バンバ」踏みと呼ぶ会場の雪踏みを行う。更に夕食後に団員達は、集落の高みに集まり、鳥追い唄を歌いながら、集落を下って行き、ここで横一列になって、この地区の鳥追い唄を二、三回合唱する。この地区のものは、檜原地区の「長者様の鳥追いだ」の後に、「さーらばさって追いましょう 雀の頭を八つに割って 桟俵(さんだわら)さぶち込んで 鬼ヶ島ホーホー 蟹ヶ島ホーホー」と歌う。桟俵とは米俵の上下の(ふた)で、浮かびやすいから雛流しなどにも使ったものである。鳥追いの行事が終わると、「祝いもらい」と称して、事前に調べてあった年祝いの人のいる家々を回り、ご祝儀をもらう役目があるから、子供達の顔色はとたんに明るくなる。
 この二つの集落の「鳥追い」は、よほどの縁故がないと見られないが、そうした人達のため、町では二月の「雪と火の祭り」の日にこの行事を再現してくれている。今年のそれは、祭り会場に近い集落の集会場に子供たちが集められ、町の旧家の当主が、火打ち石で採火するのだが、毎年これに時間がかかり、やっと採った火は蝋燭(ろうそく)に灯される。やがて、獅子頭(ししがしら)(はやし)方が現れ、私のような客人の頭を獅子頭が()んでくれる。この夜の主役の子供達は、座敷の後方に神妙に座すばかりである。
 蝋燭の火が檜皮(ひわだ)松明(たいまつ)に移され始めると、ここからが子供の主役になる。用意した小旗を片手に、火が消えないよう松明を振り回しながら先の「今日はどこの鳥追いだ」の大合唱が、雪の夜道に続く。雪祭り会場に着いた子供達は、二手に分かれて「雀の頭を八つに割って・・・」の例の文句を大声で掛け合いのように続ける。
 この時を待っていたように、二本の二十数メートルの歳の神に、松明の火が放たれる。今年は他に、やや低めの小中学生の歳の神二基と、「いわき」の子供の歳の神があり、これにも火が付く。五本の歳の神の火は、天辺の御幣(おんべ)(心柱の飾り)に向かって走る。火の走り方はこの年の豊凶を占う(しるし)だから、既に会場からは、「豊作、豊作間違いなし」の声があちこちから掛かる。
 この「鳥追い」の行事は、主に東日本を中心に行われており、ここで歌われる鳥追い唄はどれも、害鳥を罵倒(ばとう)し、追い出す内容に決まっている。ののしられる鳥は雀や烏、それに冬鳥として渡って来る鴨や鷺なども対象になっている。その送り帰される先は、三島町の鳥追い唄にあるように、鬼ヶ島や蟹ヶ島といった仮想の島から、実在する佐渡島のような島もある。
 私にとってもう一つ不思議なのは、七種(ななくさ)囃子唄(はやしうた)唐土(とうど)の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に七草なずな」と出てくる「唐土の鳥」と、鳥追い唄の文句の共通性である。
 私達は一口に「正月」と言うが、これには一月一日~七日の大正月(おおしょうがつ)と、一月十五日を中心にした小正月とがあり、大正月の方は、各家に歳神(としがみ)(年神とも)を迎える行事ということになっている。歳神とは、その年の福徳を(つかさど)歳徳神(としとくじん)と、五穀を守る田の神のことである。一方の、十五日を中に行われる小正月の方は、農耕の予祝(よしゅく)(前祝い)的行事が中心になる。ここで注目していいのが、小正月を「(もち)の正月」とか「望年(もちどし)」と言うように、太陰暦(たいいんれき)で満月に当たる日で、ここに重要な意味が秘められている。
 ここからは、民俗学者の柳田国男説を拝借する。柳田は田植直前の満月の日を重要な日と考え、実際に農作業の始まる四月が一年の最初であろうと考えた。その後、中国の暦法が日本に伝わった際、本来の四月十五日の年初めが一月十五日に移されたと推測、それゆえ小正月の行事に農耕に関するものが多いと考えた。歳時記に長いことかかわってきた私などは、この説に得心する。
 その小正月の行事を『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)は、次の五つに分類できるとしている。いわく、①小正月の訪問者、②害鳥獣を防ぐ呪術(じゅじゅつ)、③火祭り行事、④農作物の予祝儀礼、⑤卜占(ぼくせん)儀礼――の五つだという。
 ①の訪問者とは、秋田の男鹿地方に伝わる「なまはげ」や、東北地方などに伝わる「かせどり」(小正月の夜、若者達が鶏の鳴き声をさせながら各家を回り、餅や銭をもらう行事)などのことで、顔を隠し、扮装(ふんそう)して現れるのは正月神であって、異界からこの世へ定期的にやって来る訪問者とされる。
 ②の害鳥獣を防ぐ呪術の一つが先の「鳥追い」で、西日本に伝わる土竜叩(もぐらたた)きや狐狩りなどもこの分類に入る。③の火祭り行事が、全国で左義長(さぎちょう)、塞の神、さいと焼き、どんど焼き、三九郎焼き、などと呼ばれる火祭りである。歳神祭の終わりを示す行事だから、正月に飾った松や注連(しめ)飾りを焼く。
 ④の予祝儀礼は、火祭り同様に全国に残っていて、餅花(もちばな)(あわ)穂・(ひえ)穂、庭田植えなどと呼ぶ。中でも餅花の代表が(まゆ)玉で、養蚕が盛んだった関東や東北、中部地方に多く残る。⑤の卜占儀礼の代表は年占(としうら)で、(かゆ)の中に竹管や(あし)管などを入れ、それに入った粥や小豆(あずき)の分量で、その年の豊凶や天候を占う。この⑤の分類には、綱引きや競馬(くらべうま)、相撲、(たこ)揚げなども入る。そうそう、新年の季語の「成木責(なりきぜ)め」も加えねばなるまい。「成木責め」とは、柿など実の()る木を祝い棒で叩き、豊作を約束させる呪術行事で、これも小正月に行われる。
          ※
 さて、くだんの三島で「鳥追い」の後に行われる集落の歳の神のことにも触れておきたい。一月十五日に行われる歳の神は、平成二十年度の「重要無形文化財」に文部科学省から指定された行事でもある。二十幾つかある集落のうち、火事を出して取り止めた三集落を除くほとんどの地区で行われる。歳の神の形もまちまちだが、点火が午後六時半と七時の二グループに分かれるから、どう急いで経巡(へめぐ)っても二つの集落のものしか見られない。
 今年も三島町に入った私は、まず六時半点火の宮下地区のものを最初に見た。ここの歳の神は、身丈ほどの高さの小屋型のもので、四面が杉の青葉で覆われてある。火が回ると杉の青葉がパチパチと()ぜ、音の演出をしてくれる。六時ごろから人々が注連(しめ)飾りや習字の半紙を携えて集まってくる。習字の半紙は火にくべると、舞い上がり、これを「手が上がる」とする行事で、「吉書(きっしょ)揚げ」と呼ぶ。清酒一本、蜜柑一箱、(するめ)一束などと書かれた寄進札が、雪の中、次々に張り出されていく。中には「おでん一(なべ)」などの札もある。
 小屋状の歳の神の真ん中に立つ柱は、(しん)に杉丸太と青竹を組んであるから、これに火が回ると竹の爆ぜる大音響と共に火の粉が飛び散る。このころ、参加者に先のおでんや甘酒が振る舞われ、棒の先にはさんだ餅花や鰑が火にかざされていく。
 この夜の二つ目の歳の神に選んだのは、車で五、六分の檜原地区のもので、点火は七時。「鳥追い」の子供達が「シロ踏み」と称して踏み固めてある雪の真ん中に、二十メートル近い塔状の歳の神が鎮座している。ここを取り仕切るのは、私の古い友人で、町の総務課長の鈴木隆さんである。大男の鈴木さんの「点火!」の号令で火がつくと、火は途端に走り始める。蜜柑が撒かれ、札の付いた五円(ご縁)硬貨も撒かれる。
 火が先端の飾り御幣(おんべ)に達するやいなや、鈴木さんの「どうづき」の声が掛かり、若い男性が一人大勢に抱え上げられ、雪の中に放られる。「どうづき」に漢字を充てると、「胴突き」で、江戸時代、年末の煤払(すすはら)いの折、祝儀として、主人以下一同を胴上げした胴突きと同義であろう。この胴突きは、地方によって「婿投げ」と同じで、新婚の男子が子宝に恵まれることを願う儀式でもある。
 私達は、竹筒に注がれる濁酒(どぶろく)に、したたか酔った。

  鳥追や金龍山の夕の鐘     矢田 挿雲
  鳥追の声不揃ひに闇を行く   上村 占魚



(c)yoshihiro enomoto



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