『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏
2009/06/04



 第六回 ビー玉遊びのルーツ

 かつての男の子の遊びを三つ挙げよと言われれば、独楽(こま)面子(めんこ)、それにビー玉に指を折ることができる。中でもビー玉は、持ち歩きに少々(かさ)むが、場所の広い狭いにかかわらず、どこでも出来る遊びだったから、四季を問わずポケットを膨らませてビー玉を持ち歩いた。
 広い場所なら、互いに撒いたビー玉をかわるがわる近づけながら、相手のビー玉に当てられる距離を見計らっていく。転がして当ててもよし、また親指と人差し指、中指でつまんで当ててもよかった。正確に当てるには、このつまんだビー玉を右目に近づけて(ねら)いを定めて放ると、比較的命中率が高かった。
 相手のビー玉に当てるだけならこれでよかったが、大方はもう一つルールがあった。弾きとばしたビー玉と自分のビー玉がある一定の距離がないと勝てないルールである。そのルールとは足底で七歩の距離を離さなくてはならない。子供の足底が二十センチとすれば、七歩で百四十センチ離さなければ、相手のビー玉は取れない。だから、目の位置に定めて放ったのでは、当たっても距離が出ないから、命中率は低くとも、ボールを投げるように力強く当てた。

 こんな広い場所の要らない遊びに、私達が「目落とし」と呼んだものがある。付近にある板でも(かわら)でも何でも立て掛けて、その斜面にビー玉を落として進んだ距離を競う遊び。やや広い場所なら斜面を急にするとビー玉は遠くまでとぶことを子供達は承知していた。ビー玉を目の高さから離す折、意図的に押す違反行為もあるから、互いに目を光らせることを(おこた)らなかった。
 この遊びも、一番遠くまで運んだ者が、二番目のビー玉を狙い、やはり当てて離れた距離を足底七歩で測る。ギリギリ七歩に満たない時は、靴を脱いで素足でもう一度測り直す。二番目のビー玉を取った親は、順次三、四、五番目を狙えるが、ここで必要な技術は、相手のビー玉だけを弾き、自分のビー玉はそこに留まっている必要がある。そのため、径が二倍ある大玉も使った。これだと相手のビー玉は遠くへ弾かれ、親の大玉は足元に残る。
 三つ目の遊びは真ん中に円を描き、各自が決まった数のビー玉をその円の中に入れ、スタートラインからじゃんけんで勝った順にビー玉を転がし、円から弾き出したビー玉を取れる。これにも先の大玉を使うと効果が抜群だった。終戦後もしばらくすると、ガラス製の大玉の大きさのベアリング(軸受け)玉が出回り始めた。これは鉄製だから、当てると弾きとばす力が強く、時には相手のビー玉を割ることもあったので、全員がこれを持たないときは使用禁止となった。割れやすいと言えば、透明なガラスの中に色模様の入ったビー玉も出回り始めたが、当たると割れやすいので、子供達には不人気だった。
 これらの広い遊びの場のない場合は、もっぱら指で弾いて遊んだ。小指を地面に立て、親指と人差し指で弾いて行う。これも相手を狙って当てたり、円の中のビー玉を弾き出す遊びが大方だが、この遊び向きにさらに小さい径一センチほどのビー玉もあった。
 この他、学校の廊下などでも、指で弾くビー玉遊びがあったが、床が少しでも傾斜しているとゲームが成り立たないから、床の中央にビー玉を並べ転がり始めないかどうか確認する必要があった。
            
       ※

 さて、私達子供を熱狂させたビー玉だが、その歴史はそう古くない。そもそもビー玉の「ビー」は、ポルトガル語の「ビードロ」(ガラスの意)ということになっている。これに対して、明治時代に流行したラムネの(せん)として使えない、「B級の玉」を使ったという説もあるが、こちらはどうも眉唾(まゆつば)くさい。
 いずれにしろ、ガラスは幕末から明治にかけて日本に入ってきた代物だが、そのビー玉遊びのもとになった遊びは、日本にも古くからいくつかあった。
 その一つが新年の季語として歳時記に登載されている「穴一(あないち)」かも知れない。正月に子供や若い男女がする遊びだったが、当初は銭を使ったが、それが()け事だとされ、文化三年に禁止されている。文化三年とは、西暦で言えば一八〇六年だから、もう二百年も前のことである。これに代わって使われたのが無患子(むくろじ)の実や、この連載の「お弾き」の項でも紹介した巻き貝の細螺(きさご)だった。この貝は当時銭貝(ぜぜがい)と呼ばれていた。無患子の実の方は羽根つきの羽に使った黒い堅い実を想像していただければいい。これらの他に、小石や面子(めんこ)も使った。
 遊び方は円形の穴を掘り、少し離れたところに線を引き、この線から無患子の実を投げ入れ、穴に入ったら勝ちとし、その物を取り戻せるが、穴の外に落ちた場合そのままにしておき、次の者が打ち当てたらそれをも取れるという遊び。この時代に喜田川守貞が書いた随筆集『守貞漫稿(もりさだまんこう)』の手鞠(てまり)唄にも、「三つとや、みなさん児ども衆は楽遊び遊び、穴市、こまどり、羽根をつく」の一節が紹介されるが、ここに書かれる穴市がくだんの穴一である。
 この「穴一」と並んで、詳しい歳時記には「(つぶ)遊び」なる新年の季語も登載されている。何ということはない、壁際に(わん)の半分ほどの穴を開け、おのおのが手持ちの銀粒を入れ、石を放って勝負した、「穴一」に似た遊びもあったが、さすが古い遊びだから例句は入集されていない。
 もう一つ書き落とせないのが「銀杏(ぎんなん)打ち」で、銀杏(いちょう)の実を使うところから「いちょう打ち」とも呼ぶ遊びもあった。その名の通り銀杏を地面にばら撒き、所定のところに線を引き、そこから順番に撒いた銀杏に銀杏をぶつけたりして遊んだ。
 角川書店刊の『図説 俳句大歳時記』に「穴一」の解説の中に「中国でクルミを用いて遊んだのがわが国へ移入されたとの説がある」とあるように、『日本こどものあそび大図鑑』(遊子館刊)にも、「胡桃(くるみ)打ち」の項を設け、「銀杏打ち」と同じ手順の遊びが紹介されている。ただ、ビー玉と違って、銀杏や胡桃では、形が不安定だから、遊びとしてはさぞや不都合だったろうと思われる。
 その点、巻き貝の栄螺(さざえ)(ふた)を使って遊ぶ「栄螺打ち」の、円を描いて、その中に置いた栄螺に当てる遊びの方は、胡桃や銀杏に比べ物が平たいから、随分と安定した遊びだったのかもしれない。


  穴一の筋引きすてつ梅が下    太 祇
  意銭(ぜにうち)や塀にもたれし背のよごれ  高田蝶衣



(c)yoshihiro enomoto



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