2009/09/08 |
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第九回 学校の行事「蝗捕り」 |
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八月の末に、高野山に参籠すべく、大阪まで新幹線に乗ったが、途中の静岡から浜松辺りの稲は早や黄ばみ始めていた。こんな景に出会うと、子供の頃を田舎で過ごした私には、訳もなく もちろん、今から六十数年前の戦中、戦後の記憶だが、この蝗捕り、学校の一大行事でもあった。蝗捕りと、桑の木に取り付く尺取虫( 田水を落とした後の田に入っての作業だから、下駄以外ならどんな出立ちでもよかった。ただし、この作業に加わるには蝗捕り用の袋を用意しなければならない。蝗の脚は、人間の脚のふくらはぎに当たるところに、「のぎ」と呼んだギザギザが付いている。この「のぎ」が、捕った蝗を袋に入れる際に布に引っ掛かるので、袋作りには工夫が必要だった。その辺のところは親が承知していて、 稲穂に朝露がある頃は、蝗の動きも鈍いので、こんな日は朝早い時刻に子供達は集められた。なるほど稲穂を掌でつかむように握ると簡単に捕れた。とは言え、子供達が喚声を上げながら、列を作って田の中を進むのだから、蝗が驚かないはずはない。田中は一大 三、四枚の田を回ると、 ちょっと横道にそれるが、江戸時代に四回あった 蝗捕りに話を戻すが、現在なら捕った蝗を焼殺するか薬で殺すのだろうが、当時は蝗も貴重な 農薬の普及で、昭和二十年代の半ば頃から蝗は姿を消したが、この味を懐かしむ人がいるからなのだろう、大分後に佃煮屋に蝗が並ぶようになった。真偽のほどは分からないが、仙台辺りの在で養殖している、という噂も伝わった。ところで現代の蝗だが、「寅さん」で名高い東京・柴又の佃煮屋や下町のそれでも売られていて、当時子供の作業だった「のぎ」が付いたままで、どこでも売られている。 蝗は これに対して、「虫送り」の傍題季語に「 なぜ実盛の名が虫送りに付いたかだが、これには諸説がある。中でももっともらしいのが、実盛が稲株につまづいて討ち死にしたので稲の虫に化したというのである。この話に更に尾ひれが付いて、田中で討たれた折り、「稲の虫となって怨みを晴らす」と、実盛が言ったというのだ。 もう一つの説も少々 その経緯はともかく、「実盛送り」は、今も行事として残っている。主に西日本で行われるそれは、麦藁で作った「実盛様」を藁馬に乗せて行列する虫送りで、これがあちこちで行われる。 |
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豊の穂をいだきて蝗人を怖づ 山口 青邨 花茣蓙に穂田の蝗の来て青し 水原秋桜子 |
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(c)yoshihiro enomoto |
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