『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2009/10/26
子供

 第十回 十日夜(とおかんや)の藁鉄砲

 秋の収穫を祝う行事は全国各地にあるが、私が子供の頃過ごした群馬では、陰暦の十月十日に行われる十日夜(とおかんや)がそれだった。稲の収穫に感謝し、米作の豊穣(ほうじょう)を祈って、餅やぼた餅を田の神に献上するが、この点は全国共通の習わしのようだ。
 この日を子供は皆待っていた。藁鉄砲を作って一日暴れることが出来るからだ。まず朝の藁(もら)いから始まる。かつては麦も稲も手刈りだから、藁は農家のバラックにいくらでも積んであった。これらの藁は、葉の袴と呼ぶ部分を千歯扱(せんばこ)きで扱き落として、正月用の注連縄(しめなわ)を作ったり、()って荒縄をこしらえたり、また(むしろ)や米俵を編んだ。農家の(かまど)の脇にも積んであり焚付(たきつ)けに利用したが、この藁だけで炊いたご飯は格別うまかった。ただこの場合、人が付きっ切りで焚き口の番をしなくてはならなかった。更に霜融けの庭に敷きつめたり、冬の甘藷(さつまいも)の保存にも重宝した。東北地方では寝床に藁床を使う所もあった。
 くだんの藁だが、藁鉄砲に使う程度ならすぐに手に入った。もう一つ藁で編んだ荒縄も相当量必要だが、藁鉄砲に必要なセットだから快く分けてくれた。事情を知っている農家では逆に「芋幹(いもがら)も持って行きなよ」と言いながら出してくれた。
 実は藁鉄砲には、この里芋の茎、芋幹がなくてはならない代物だった。それについては後段で詳述する。今でこそ芋幹は、収穫後畑に捨てられるが、食糧難の時代は貴重だったから、どの家も皮をむいて干して使った。この芋幹を、「芋茎」と書いて「ずいき」と読むことは大人になって知ったが、その芋茎が熊本県の名産で肥後芋茎として知られていることもこの時覚えた。少し余談になるが、熊本に築城した加藤清正は、城内の畳床にこの芋茎を用いた。そう、長い期間籠城(ろうじょう)せざるを得なくなった折りに、水に戻して兵の糧食として利用できるからだった。
 さて、藁鉄砲作りの本番だが、芯に生の芋幹をたっぷり入れ、その外側を、これまたたっぷりの藁で覆い、下から順に荒縄できつく巻いて仕上げる。荒縄の巻き方が緩いと、地面に打ち付けた時、快い「ポン、ポン」と弾む音がしない。そればかりか下方から縄がじきに解けてしまう。小学校の低学年の時に自分で作った藁鉄砲は大方がこんなたぐいだった。
 それに引き替え、子供の時代から代々作り慣れている同級生の父親に作ってもらったそれは、最後まで形崩れせず、快い音を響かせ続けた。
 小学校の上級生になると、この藁鉄砲製作の工程に工夫を凝らし始めた。まず崩れ易いのは、芋幹とそれを覆う藁を、子供の力で荒縄でじかに巻いたことに気付いた。私達の手許には(たこ)揚げ用の太い凧糸があったから、この凧糸で芯の芋幹と覆いの藁を形崩れしないようにしっかり括った。この束に荒縄を巻く時も右脚でしっかり固定させながら巻いていった。仕上げは、この藁鉄砲にループ状に取り付ける把手(とって)だったが、これも凧糸の世話になった。試みに、寺の参道の敷石に打ち付けてみると、「ポン、ポン」と快い音と共に、藁鉄砲が跳ね上がる。会心の出来になった。
 この藁鉄砲を手に、地区ごとに子供達は集まり、上級生の指図で一軒一軒農家を回り、庭先で「トーカンヤ、ワラデッポー」と唱えながら地面を(たた)き続けた。当の農家からは菓子等が振る舞われたが、私達は、去年のように藁鉄砲が崩れないことに興奮して叩き続けた。
 ひたすら遊びに興じたが、当時は何のために藁鉄砲を地面に打ち据えるか知る由もなかった。歳時記をいじるようになってその意を探ると、田に害をなす猪を追い払うためとか、大根を太らせるため、など諸説がある。私の子供ころのかすかな記憶をたどると、田畑を荒らす土竜(もぐら)を追う行事だと聞いた覚えがある。だとすると、小正月に行われる予祝行事「土竜打ち」とどう違うのだろうと思えてくる。
 藁鉄砲は、主に関東から東北にかけての行事だが、西日本には同じ時期に「()の子」なる行事がある。これも稲の収穫祭で、春に田畑に来臨した田の神「亥の子様」を送り返す儀式とされる。この日は十日夜(とおかんや)と同様に餅やぼた餅で祝うが、子供達は「亥の子()き」を行う。これは丸石に幾本もの縄を付け、引き上げては落とし地を搗くところ、藁鉄砲と同根といえる。


  臼音は麓の里の亥の子かな    内藤 鳴雪
  十日夜星殖え子らに藁鉄砲    大野 林火



(c)yoshihiro enomoto



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