『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2012/05/28
子供

 第十三回  置き(ばり)を仕掛けて(なまず)

 大人になって知ったことだが、中国では、(なまず)と書けば(あゆ)のことで、逆に鮎と書けば鯰のことを指すのだという。そう言えば、京都の妙心寺にある国宝「瓢鮎図(ひょうねんず)」はまさにその使い方である。室町時代の画僧、如拙(じょせつ)によって描かれたこの水墨画は、瓢箪(ひょうたん)で鯰を押えるという、禅の公案を表している。ここでも、中国流に鯰と鮎が逆に描かれてある。
 こんな堅い話は脇に置いて、ここでは、子供時代に私が興じた鯰(なまず)捕りの話を書かなくてはならない。
 当時、鯰捕りにかなった方法は、置き(ばり)だった。その名の通り、前夜仕掛けたこの鉤を、翌早朝揚げる漁法である。五十センチほどの棒に、頑丈なかつ糸((たこ)糸)をつけ、鉤の号数は忘れたが、大きな鉤をかけ、これに餌を付ける。この餌がまた振るっている。正式の呼び名は知らないが、井戸の流しの周辺にいて、群馬ではウタウタミミズの名で呼ぶ十センチほどの蚯蚓(みみず)が一般的な餌である。これがない時は、(いも)虫や、胡麻(ごま)の葉にいる色鮮やかな虫を使う。
 これも、大人になり、俳句を始めてから知ったことだが、蚯蚓の傍題季語に「歌女(かじょ)」がある。少し荒唐(こうとう)無稽(むけい)な言葉だが、民間に伝わる説話を材にした季語である。
 蛇は昔、目を持たなかったが、その代わり歌が上手だった。その蛇のもとに蚯蚓がやって来て、歌を教えてくれるよう乞うた。乞われた蛇は歌を教えることと引き換えに蚯蚓の目をもらった――と、いうのだ。事実子供のころの私の周囲には、歌が上手になりたくて、蚯蚓を(せん)じて飲んだ人の噂が絶えずあった。
 引用が大分長くなったが、鯰捕りに使ったウタウタミミズのことを思うと、その「ウタウタ」が、この「歌女」の思いにつながる。
 さて本題の鯰捕りだが、夕暮れになるころ私達は田川に出掛ける。その田川に沿った(くろ)に棒切れの竿をしっかり刺し込む。そうしないと、大鯰が掛かった折、強い引きで竿が抜けるからである。各自三十本ほどを掛ける。その夜は興奮して眠れないことが多い。
 翌朝は薄暗いうちに出掛ける。そうしないと他のグループに捕られるからである。土から竿を抜いた途端重いのが鯰である。しかも他の魚のようにバシャバシャッと暴れない。この鯰は一日に何匹か捕れる。鯰には年齢があって、尾が割れていないものを一歳鯰と呼ぶが、二つに割れているものは二歳鯰、三つに割れたものは三歳と呼んで珍重する。ことに三歳は滅多に捕れないうえに、仕末の悪いことに鯰は揚げると、じきに白い腹を上にして死ぬ。友人の捕った三歳鯰は、田に迷い込んだものをしとめたもので、近くの家に急いで持って帰り、(たらい)に放したものだった。尾と頭が盥の端に届くほどの丈の三歳だった。興奮した友人が触れ回り、私も呼び出された一人だった。
 鯰はすぐ死ぬ上に、身がゆるく、あまり美味ではないから、捕った手前やっと食べたものだ。大人になって、東京・浅草の泥鰌(どじょう)老舗(しにせ)「駒形どぜう」で食べた鯰は滅法うまかった。やはり味付けが違ったのだろう。
 鯰捕りの置き鉤に、時々(うなぎ)が掛かる。鰻は穴釣りでも経験しているが、掛かった時の引きがべらぼうに強い。その引きが強いゆえにだろう、糸が首にからんで死んだ状態で掛かっている。
 鰻が捕れた日は、勇んで凱旋(がいせん)する。こんな日の(ゆう)(ぜん)には、母の割いた鰻の白焼きが並ぶのである。
 蘊蓄(うんちく)を傾けるようだが、日本にいる鯰には三種類ある。一つ目は泥鯰で、二つ目はアメリカ鯰、そして三つ目が岩床(いわとこ)鯰である。先の田川で捕れた鯰は泥鯰である。中でも食べたことのない岩床鯰を求めて探しあてたのが、東京・新大久保の、その名も「なまづ屋」である。
 泥鯰と違って岩床鯰は清流に()む魚。「なまづ屋」のそれは、岐阜県の渓流で捕ったものという。生きたまま東京まで運び、この店の地下にしつらえた大きな水槽で飼う。廊下にあるのぞき窓から水槽を見ると、清流の魚には珍しく水底にはりついている。それもそのはず、水温が高いとこの鯰、共食いをするので温度を下げてあるというのだ。
 さて味の方だが、最初に出てきたのは刺身の梅肉和えである。ややあって、(こち)の薄づくり風に、絵皿に並べて薄づくりが出てくる。とても私の想像している鯰の味ではない。ご主人の言葉を借りれば、初めての客の大方はここいらで、「そろそろ、本物の鯰を出してくれ」と言うのだそうである。





(c)yoshihiro enomoto



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