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大人になって知ったことだが、中国では、鯰と書けば鮎のことで、逆に鮎と書けば鯰のことを指すのだという。そう言えば、京都の妙心寺にある国宝「瓢鮎図」はまさにその使い方である。室町時代の画僧、如拙によって描かれたこの水墨画は、瓢箪で鯰を押えるという、禅の公案を表している。ここでも、中国流に鯰と鮎が逆に描かれてある。
こんな堅い話は脇に置いて、ここでは、子供時代に私が興じた鯰(なまず)捕りの話を書かなくてはならない。
当時、鯰捕りにかなった方法は、置き鉤だった。その名の通り、前夜仕掛けたこの鉤を、翌早朝揚げる漁法である。五十センチほどの棒に、頑丈なかつ糸(凧糸)をつけ、鉤の号数は忘れたが、大きな鉤をかけ、これに餌を付ける。この餌がまた振るっている。正式の呼び名は知らないが、井戸の流しの周辺にいて、群馬ではウタウタミミズの名で呼ぶ十センチほどの蚯蚓が一般的な餌である。これがない時は、芋虫や、胡麻の葉にいる色鮮やかな虫を使う。
これも、大人になり、俳句を始めてから知ったことだが、蚯蚓の傍題季語に「歌女」がある。少し荒唐無稽な言葉だが、民間に伝わる説話を材にした季語である。
蛇は昔、目を持たなかったが、その代わり歌が上手だった。その蛇のもとに蚯蚓がやって来て、歌を教えてくれるよう乞うた。乞われた蛇は歌を教えることと引き換えに蚯蚓の目をもらった――と、いうのだ。事実子供のころの私の周囲には、歌が上手になりたくて、蚯蚓を煎じて飲んだ人の噂が絶えずあった。
引用が大分長くなったが、鯰捕りに使ったウタウタミミズのことを思うと、その「ウタウタ」が、この「歌女」の思いにつながる。
さて本題の鯰捕りだが、夕暮れになるころ私達は田川に出掛ける。その田川に沿った畔に棒切れの竿をしっかり刺し込む。そうしないと、大鯰が掛かった折、強い引きで竿が抜けるからである。各自三十本ほどを掛ける。その夜は興奮して眠れないことが多い。
翌朝は薄暗いうちに出掛ける。そうしないと他のグループに捕られるからである。土から竿を抜いた途端重いのが鯰である。しかも他の魚のようにバシャバシャッと暴れない。この鯰は一日に何匹か捕れる。鯰には年齢があって、尾が割れていないものを一歳鯰と呼ぶが、二つに割れているものは二歳鯰、三つに割れたものは三歳と呼んで珍重する。ことに三歳は滅多に捕れないうえに、仕末の悪いことに鯰は揚げると、じきに白い腹を上にして死ぬ。友人の捕った三歳鯰は、田に迷い込んだものをしとめたもので、近くの家に急いで持って帰り、盥に放したものだった。尾と頭が盥の端に届くほどの丈の三歳だった。興奮した友人が触れ回り、私も呼び出された一人だった。
鯰はすぐ死ぬ上に、身がゆるく、あまり美味ではないから、捕った手前やっと食べたものだ。大人になって、東京・浅草の泥鰌の老舗「駒形どぜう」で食べた鯰は滅法うまかった。やはり味付けが違ったのだろう。
鯰捕りの置き鉤に、時々鰻が掛かる。鰻は穴釣りでも経験しているが、掛かった時の引きがべらぼうに強い。その引きが強いゆえにだろう、糸が首にからんで死んだ状態で掛かっている。
鰻が捕れた日は、勇んで凱旋する。こんな日の夕膳には、母の割いた鰻の白焼きが並ぶのである。
蘊蓄を傾けるようだが、日本にいる鯰には三種類ある。一つ目は泥鯰で、二つ目はアメリカ鯰、そして三つ目が岩床鯰である。先の田川で捕れた鯰は泥鯰である。中でも食べたことのない岩床鯰を求めて探しあてたのが、東京・新大久保の、その名も「なまづ屋」である。
泥鯰と違って岩床鯰は清流に棲む魚。「なまづ屋」のそれは、岐阜県の渓流で捕ったものという。生きたまま東京まで運び、この店の地下にしつらえた大きな水槽で飼う。廊下にあるのぞき窓から水槽を見ると、清流の魚には珍しく水底にはりついている。それもそのはず、水温が高いとこの鯰、共食いをするので温度を下げてあるというのだ。
さて味の方だが、最初に出てきたのは刺身の梅肉和えである。ややあって、鯒の薄づくり風に、絵皿に並べて薄づくりが出てくる。とても私の想像している鯰の味ではない。ご主人の言葉を借りれば、初めての客の大方はここいらで、「そろそろ、本物の鯰を出してくれ」と言うのだそうである。
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