『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2012/06/07
子供

  第十四回  小麦の穂からチューインガム

 昭和二十年八月十五日の終戦の日から間もなく、わが町にも米軍の進駐軍がやって来た。この町は中島飛行機(のちの富士重工)の創設者、中島知久平の出身地だから、大きな敷地を持つ中島飛行機の工場があった。その跡地にやってきたのである。
 ある日回覧板が回ってきて、町の大通りの一丁目から八丁目を進駐軍がパレードするから集まるようにとあった。ただし、女性や子供は控えるように、とも追記してあったと覚えている。パレードは東の一丁目の方向からしずしずとやって来る。多分、軍楽隊も同行していたと記憶している。隊列が近づくにつれて、女性は物陰に隠れ始めた。
 目の前にやってきた隊列は、ジープもトラックも、私達がそれまで国防色と呼んでいたカーキ色一色で、ジープの(わき)腹には、スコップや(つる)はしと覚しき軍装品までくくり付けてあった。私達子供が見たかった銃や砲は一切携行しておらず、兵は手を挙げて笑顔を振りまいた。こしらえた人形に、「鬼畜(きちく)米英」と叫んで石を投げてきた、あの怒りが収まっていくのを私は覚えた。
 以後、田舎(いなか)町の様相は一変してゆく。町中にある飲食店の前に、米兵の入店を制限する看板、「オン・リミッツ」と「オフ・リミッツ」が掲げられた。それを見回る米軍の憲兵(けんぺい)「MP」も目立つようになった。
 子供ながら、よくもそんなことを知ったと思うのだが、米軍人を相手にする女性もたくさん町にやってきた。そんな中で、一人の米兵専属の女性を「オンリーさん」と呼んでいた。そのオンリーさんは、民家の二階や離れを借りて、米兵の夜の来訪を待っていた。
 夕方になると、基地から続々米兵が出てくるが、判で押したように、胸に茶色の大きな紙袋を抱えていた。子供ながらも、その中身は「オンリーさん」へのプレゼントでもあるチョコレートやチューインガムが入っていると知っていた。「オンリーさん」のいない米兵も町中をうろつき始めていたから、女性は恐れた。私の母も夕方、突然物陰から現れた黒人兵に、「ママさん、ハズバンドいますか?」と尋ねられたと言って血相を変えて帰ってきた。
 くだんの「オンリーさん」に届くチョコレートやチューインガムの類が、町中に出回り始めた。その味を大人は知っていても、子供には初めて出遭う夢の味である。誰もが欲しがった。ことにリグレーの名で呼ぶチューインガムは、一包五枚、いや六枚入りだったかもしれないが、黄色と薄緑色、それにもう一色あった。間違ってチョコレートを口に入れて一緒に()もうものなら、解けて(のど)を通ってしまう。このガム、もったいないから、噛み飽きると、コップの水に漬けておいたりもした。
 そんな私の許に、二、三級先輩のIがやって来て、リグレーを売ってやると言う。六枚入りのそれが五円だと言う。当時、お祭りなどの折、親からもらう小遣いは、せいぜい一、二円だから、五円は大枚(たいまい)である。
 放課後、五円を工面して、町外れの誰もいない市場の広場に行くとIは来ていた。約束の五円を渡すと、ガムを家に取りに行くから「ここで待っていろ」と言う。待っている間、六枚のガムの配分を私は考えていた。二人の弟には一枚ずつやらねばならないが、残り四枚の行き先も思案し続けた。夕方になっても、Iはとうとうやって来なかった。
 チューインガムのありがたさを言うために、当時の時代背景を書き過ぎたが、ここからが本題の小麦の穂から作るガムの話である。
 戦中、戦後は米が不足していたから、農家は二毛作で大麦、小麦をたくさん作った。大麦は押し麦にて米に混ぜて炊いた。この押し麦は表に茶色の線が入っているから、子供達は「兵長」と呼んだ。戦時を経験しているから、どの子も兵隊の階級を知っていた。兵長とは、下から順に二等兵、一等兵、上等兵に続く階級で、兵の制服に付ける肩章は筋一本だから、これを押し麦に見立てたのである。
 一方の小麦の方は、アメリカから入ってくる上等なメリケン粉が手に入らないため、この小麦を多く作った。土地では地粉と呼んで、色も少し赤らんでいて、味にも酸味がややあった。また脱線しそうである。
 だから、六月ごろになると、これら大麦、小麦が実って畑が茶色になる。これが麦秋で
  麦秋の子がちんぼこを可愛がる    森 澄雄
といった光景も見える。ただ、麦秋の季語には視覚的な色だけでなく、麦の穂が()れる時発する嗅覚(きゅうかく)的な匂いの語感も私にはある。
 そんな麦秋の季節を子供達は待っていた。まず小麦の穂を四、五個つかみとり、両(てのひら)でこすり合わすと、穂の先にある(のぎ)と殻が少しずつ取れるから、これに息を吹きかけて飛ばす。こんなことを何度も繰り返しているうちに、小麦特有の、つやつやした赤茶色の核の部分が掌に残る。これが肝心の下準備である。
 これを、やおら口に放り込み噛み始める。口の中で赤茶色の表皮がはがれるから、何度も(つば)とともに吐き出す。やがて、小麦特有のグルテンができ、少しずつガム状になってくる。これで完成ではない。時々、指につまんで出してみて、茶色の色が残っていたら、噛んで吐き続ける。かれこれ小一時間は噛んだであろうか、指でつまんで伸ばしてみると、ガムのように伸びる。完成である。これもまた、コップの水に保存することになる。
 くだんの米兵だが、休暇なのだろう、数人が連れだって、見物のため町中に出てくる。帽子名は知らないが、制服と同じカーキ色の、長方形の帽子をやや斜めにかぶっているから、すぐそれと分かる。子供達もこの帽子に似たものを新聞紙で作った。その米兵の後ろに子供がついて回り、「ギブミー・チューインガム」を連発する。現在、中東やアフリカのニュースで子供が米兵や国連兵の周りに群がり、物をねだる場面のあれである。そんな折の手柄の品を学校に持ってきて、ひけらかす者も現れた。
 そんなある日、二人の米兵が我が家の近くの寺にやってきて、寺院の回廊から扁額(へんがく)を見上げながらメモを取っていた。辺りを見回して誰もいないことを確認してから私は、恐るおそる「ギブミー」をやった。メモの手を止めた二人は私を見下し、しばらく(にら)んだ後、「ノー!」とだけ言った。私の長い生涯の中で、これほど恥ずかしい思いをしたことは、この時をおいてなかった。




(c)yoshihiro enomoto



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