『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2012/06/28
子供

  第十六回  紙芝居と「黄金バット」

 紙芝居といえば今や、幼稚園や保育所、あるいはボランティアが、子供達に読み聞かす程度のものだが、かつてはこれが(あめ)売りと一緒になって、戦前の最盛期には、当時の東京市だけで二万人もの紙芝居屋がいた、と記録にはある。
 ご多分に漏れず私も、終戦末期から戦後にかけて、この紙芝居のファンだった。いや私に限らず子供は皆そうだった。雨が降って紙芝居が来ない日は落胆(らくたん)したし、雨が止んで虹が出ようものなら、子供心に快哉(かいさい)を叫んだ。
  紙芝居来さうな虹のかかりけり
は、そんな思いで待った、私の回想の俳句である。
 紙芝居屋は不思議と、子供が学校から帰ったころを見計らってやって来る。自転車の後ろに、畳んだ紙芝居一式と、商品の水飴の箱を積み、その上に大太鼓をくくりつけてやってくる。着くなり紙芝居屋は路地路地を太鼓をたたいてひと通り回る。散々五々集まってくる子供に紙芝居屋は水飴を売り始める。
 ことに戦中から戦後にかけて、砂糖の輸入はなく、家庭でも極くわずかな砂糖が配給になった程度だから、ここで売る飴は、甘藷(さつまいも)で作った水飴だった。茶色く、少々ほろ苦くもあったが、私はこの飴が好きだった。
 余談になるが、駄菓子屋の店先から子供相手の菓子が消えた。そんな中、店先にあるのは、この甘藷の飴を固めて柄を付けたトンカチ(金づち)飴が主流だった。今は香料にしか使わない肉桂(にっけい)の根は、五センチほどに切って甘く味付けがしてあって、この皮をかじり取って食べた。もう一つ、この肉桂の甘い味を浸みこませたセロハンを、よじって紙縒(こより)状にした菓子もあって、これはガムのように()んだ後に吐き捨てる代物だった。これらの甘味にも、サッカリンやズルチンという人工甘味料が使われていたから、(うま)いはずがない。
 我が家と知り合いの「まんじゅう屋」と呼ぶ店先にも、こんな駄菓子しか並んでいなかったが、ある日、おじさんが、目の前で(さら)し飴を作ってくれた。柱に五寸(くぎ)状のものを打ち、それに油を塗って、くっつかないようにする。やや固めに煮詰めた水飴を延ばしてこの釘に掛け、延びたらまた半折りにして釘に掛けて引く。すると水飴が白くなって、引く力もだんだん重そうになってくる。これが、空気に晒すことでできる晒し飴であることを初めて知った。
 くだんの紙芝居屋は、列を作る子供に、二本の(はし)状の棒に水飴をからめては渡している。この飴を、先の「まんじゅう屋」のおじさんのごとく、手早くからめて、一番白くした子に、もう一本のおまけが付いた。その早さの秘けつは、一本の棒を左手に持ち、もう一本は右手に握るように持ち、飴をからめながら手早く上下に動かす。途中、なめたい衝動にかられて舌でもつけようものなら、水飴は元の茶色に戻ってしまう。
 たたき終えた太鼓は、紙芝居のおじさんの脇に置いてあるから誰でもたたきたがり、先着順に許される。おじさんのように、たたき方のレパートリーがないから、子供のそれは、こんな調子である。「ドーン、ドーン、ドーン、ガラガッカ」と。「ドーン」は、先に玉状のもののついた(ばち)で太鼓をたたく音である。「ガラガッカ」の方は、撥の()で太鼓のふちをたたく音でもある。単純な調べだが、たたく本人はけっこういい気分になる。
 紙芝居そのものは、おじさん独自の語り口で、しかも抑揚をつけて語るから、つい引き込まれる。クライマックスになると、後ろの太鼓を小刻みにたたくから、興奮はいやが上にも盛り上がる。物語は一回で終わらず、「次回のお楽しみ」と相成る。これも営業政策の一つなのだろう。
 この場で限りなく多くの物語を見たはずなのだが、正直いま覚えているのは、「黄金バット」だけである。ちなみに調べてみると、この「黄金バット」は、昭和五年(一九三〇)の秋、鈴木一郎作、永松健夫絵で誕生したものだから、随分と古い。黄金の骸骨(がいこつ)マスクに赤マント姿の主人公は、子供のあこがれだった。
 この「黄金バット」の生まれた五年後には、東京市内だけで二万人、翌年には全国で三万人の紙芝居屋がいたというから、紙芝居の文化は、案外東京中心のものだったのかも知れない。この紙芝居も、戦後十年ほどしてすたれることになる。この時期、不思議とテレビの普及時期に重なる。




(c)yoshihiro enomoto



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