『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2012/07/09
子供

  第十七回  夜な夜な墓で度胸試し

 私の子供のころ、といっても終戦前後のことだから、随分と昔の話だが、子供たちにとって怖い話がたくさんあった。夜、家から人魂(ひとだま)が飛ぶと、翌日その家から必ず死者が出る――などは、怖い話の最たるものだった。事実、死者の出た日などは、「そう言えば、夕べあの家から、人魂が出るのを見た」なる話が、まことしやかに伝えられるから、子供達は縮み上がった。
 屋根に止まった(からす)が、三声続けて鳴くと、必ずその家から死者が出る、といった話も多く、
正直いって私も、大人になってからも、この烏鳴きを気にしてきた。
 怖いもののもう一つは人攫(ひとさら)いだった。夕暮れまで外で遊んでいる子供に、親が必ず言った言葉は、「いつまでも外で遊んでいると、人攫いが来るよ」だった。実のところ、私の父の兄、つまり私にとって伯父だが、九歳か十歳のころ、遊びに出たまま戻らなかった。この事件を祖母は死ぬまで「人攫いの仕業(しわざ)」と言い続けた。
 去年、寅さん記念館などが募集した第三回「寅さん俳句大賞」の入賞作品に
  ひとさらい来るぞ小僧よ大夕焼
があるが、これなどは、渥美清(ふん)する、ややお節介焼きの寅さんに、こう言わしめた台詞(せりふ)でもある。
 これら怖さの根本は、夜の「闇」にあった。今のように、コンビニの灯が一晩中点されている時代ならいざ知らず、闇は子供にとって死の世界でもあった。
 子供も少し長じてくると、この闇の世界を逆手にとって、度胸試しなどという遊びを行った。その場は必ず墓地と決まっている。遊びに先立って先輩達から怖い話を一杯聞かされるから、始まる前から足がすくんでしまう。
 私達がよく行った度胸試しは、町一番の大きな寺の墓地で、この墓所の一番奥の笹むらの中に一本の土管が立っていて、これは死産だった赤子の(へそ)()を納める場所だった。墓の中を幾曲がりもして着いたその土管に、証拠として白墨で署名してくることだった。
 この土管までは一人ずつ、つまずかないように提灯(ちょうちん)が持たされた。とはいえ、途中の墓には、骸骨の顔を描いた絵が立て掛けてあったり、隠れている者が(うな)るような声を上げるから、尋常の怖さではない。
 子供達の間には、人魂が夜光るのは、埋葬した死体から出た(りん)が、雨に濡れると光り、それを夜行性の鳥がくわえて飛ぶからだという、もっともらしい噂が立った。自分達の怖さを否定するには、ふさわしい話だった。
 この燐を、人工的に作る話も広まって、私も早速作った。当時の火付けは燐寸(マッチ)しかない時代だったし、その燐寸に付いている擦り板から燐が取れることも分かった。その方法とはこうである。燐寸の側面には、燐寸棒をすり合わせる板が付いているが、この板を箱からそっとはがすと、薄い紙状のものが取れる。これを割れた茶碗(ちゃわん)などの反った部分に乗せ、端から炎にならないように火を付けて、ジワジワと燃やす。すると陶面に真っ黄色の物質だけが残る。これが目指す燐なのである。
 この燐を、親指と人差し指でこすり、暗闇の中で見ると光る。大発見である。これが、夜、鳥がくわえて飛ぶ燐かとも思った。早速、先の度胸試しに採用することになった。どこの家にも燐寸箱は転がっているから、手分けして燐を集めた。昼間から、くだんの墓地に集まり、墓碑面に塗ったくって回った。夜になって、いざ度胸試しの段になっても、この燐、いっこうに光らない。それ以上の化学知識のない面々、「雨が降らないとだめなんじゃない?」の結論で幕となった。
 こんな話にふさわしい歌が、『万葉集』一六に残っている。
  人魂のさ青なる君がただひとり会へりし雨夜は非左思(ひさし)思ほゆ




(c)yoshihiro enomoto



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