『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2012/08/01
子供

  第十九回  嵐寛を真似てちゃんばら

 戦後の娯楽と言えば、誰もが映画に指を折るであろう。三益愛子、三條美紀コンビの『母紅梅』『母三人』といった“母もの”映画は二十数本になったというから、やはり映画の人気は並みでなかった。
 こうした“お涙もの”と違って男の子に人気は、やはり、ちゃんばら映画で、当時人気の俳優とは、嵐寛こと、嵐寛寿郎や、阪妻こと、阪東妻三郎、そして大河内伝次郎などのことで、それら俳優の癖までも子供達は知っていた。
 撮影技術が未熟だったから、それがスクリーンにすぐ映る。時代劇なのに、遠くに電柱と電線が映ったり、道路のぬかるみにゴムタイヤの跡が残っていたりしていて、こんなミスは学校でもすぐ話題になった。
 こうした映画の流行につれて、子供達の間にもちゃんばらごっこが大流行した。ちゃんばらの語源は、刀と刀を打ち合わせる仕草でもある「ちゃんちゃんばらばら」の略だから、何としても、その小道具である刀を探さなくてはならない。家にある木刀や竹刀(しない)を持ってくる者もいたが、均等を欠くとの理由で、持ち帰らされた。
 となるといきおい手作りとなる。それにふさわしい材は、養蚕県の群馬県だから桑の木となる。どこを見回しても桑畑なので、手に入れるのに苦労はいらない。刀の(つか)の部分だけ皮を残して、刀身の皮は手持ちの肥後守(ひごのかみ)なる小刀で削っていく。削るというより繊維が強いから、()ぐといった方が適切かも知れない。
 余談だが、この桑の木の皮を、終戦直後に供出(きょうしゅつ)したことがある。供出なる言葉もそろそろ死語化しているが、国の命で出すことを言った。繊維が不足していた時代だから、供出した桑の皮の繊維で学童服が作られ学校から配給になった。配給とは言っても、クラスに数着だから、おのずとクジ引きになる。私もクジに当たったが、その学童服、着るとずっしり重く、染色もしてなく、桑の皮と同じ薄緑色のものだった。
 桑に次ぐ表材は柳だった。この枝は(しな)うからちゃんばらに向いていて、力いっぱい切りつけても痛くない。ただ相手の目を突きやすいので、今のフェンシングのような突く使い方は禁じ手だった。この柳の枝が手に入らなかった末弟は、川辺に生えている(うるし)の枝を使ったのがいけなかった。その晩、目も開けられないほどに顔が()れ上がる漆かぶれとなり、外科医に二、三日通う羽目になった。
 三つ目の材は、最も自慢のできる青桐である。青桐は材も柔らかく、肥後守が無理なら誰かが持っている切り出しナイフで細工ができた。しかも材が軽いから、間違って面を打たれてもさほど痛くない。桑の木同様に、握る部分の柄を残して、刀身は削った。あまり出来の良い時は、ついボール紙を切って(つば)を付けたくなる。
 ちゃんばらには、地方によって勝ち負けのルールがあるようだが、私達のそれは、目を突かない、頭をたたかないの二つの禁じ手以外は自由だった。中でも、かの嵐寛の鞍馬天狗の仕草を誰も真似た。黒覆面に黒装束の鞍馬天狗が右手の刀を下斜めに構えながら、左手で着物の(つま)をつまんで小走りに敵を追いかける場面は誰もがやりたがった。もう一つ好評だったのが大河内伝次郎の、あの内にこもる声を真似て、刀を大上段に構え、「ぶった切るぞ!」と言う、あの名台詞(せりふ)だった。



(c)yoshihiro enomoto



前へ  次へ     戻る  HOME