『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2012/08/10
子供

  第二十回  わが宝物、匂いガラス

 他の章(「小麦の穂からチューインガム」)にも書いたが、東京の空襲が日に日に激しくなり、昭和十九年も押し詰まった十二月に、群馬県の片田舎に我が家は疎開した。この地は、中島飛行機(現、富士重工)の創設者、中島知久平の出身地で、軍需工場もあり、何度か空襲もあったが、被害はさほどなかった。
 子供心に興味を引かれたのが、中島知久平の実家のすぐそばの利根川の河原に飛行場があったことである。監視もさほど厳しくなく、土手の上に立つと、いろんなタイプの飛行機が整然と並んでいるのが望見できた。
 そんな飛行機の中の何機かが、中島飛行機製作の「呑竜(どんりゅう)」だろうと思っていた。これは大人になってから分かったことだが、この「呑竜」、ちょうど私達が疎開した昭和十九年の、それも十二月に、ミンドロ島上陸作戦を構えていた米軍に、全機が八百キロ爆弾を抱え、「菊水特攻隊」として突入し、壮烈な最期を遂げている。そんな史実は知る由もないが、利根川の土手に立った時、「呑竜」の名が一瞬浮かんだ。
 この「呑竜」の名は、恐らく近くの太田市にあって「子育て呑竜」の名で知られる寺の名から取ったものである。この寺の信徒の男の子は、赤子のころ頭を丸坊主に()り上げて「呑竜坊主」と呼ばれていた。寺に参詣の折りは、どういうことか父親が背負って出かけた。何かいわれでもあるのだろう。この寺、大光院は、江戸初期の浄土宗の僧、呑竜が開いたもので、慶長十八年(一六一三)、徳川家康に招かれて、上野国(こうずけのくに)(群馬県)の太田に開いたというから、もう四百年も前になる。
 そのころ、この地の堕胎(だたい)の風潮を嘆いた呑竜が、赤子を産んで育てることを奨励したことが、「子育て呑竜」の信仰につながった。
 さて、翌年の八月に終戦の日がやってきて分かったことは、あの利根川の河原で見た多くの飛行機は、すべて擬装、つまりカムフラージュであるということだった。軍も消滅したから、この飛行場も無法化して誰でも出入りでき、飛行機の機体(はが)しが手当たり次第行われた。
 ことに若者のそれが目立った。飛行機の横腹を開けると、長いチェーン状のものがあるが、若者、ことに当時不良と呼ばれる面々は、それを切って、喧嘩(けんか)の折に振り回して使う武器として持ち帰った。電線か管を通すために三つ四つ穴の空いたアルミニウムの部品は、多少加工して、何本かの指が通るようにし、これも、かの不良達が、喧嘩サックとか(けん)つばと呼んで、真っ先に取った。
 私達のお目当ては風防ガラスだった。防弾効果もあったのだろうから硬く、子供が石や金づちでたたいたくらいでは割れない。それらのガラスが形を整えて、たくさん学校に持ち込まれ、物々交換に使われた。これを私たちは「匂いガラス」と称して珍重した。なぜこの名かと言えば、このガラスを板にこすりつけて、鼻先に持っていくと、なんとも言いようのないいい匂いがした。
 もう一つ、どういう手づるで手に入れたのか、私の手元には、羊羹(ようかん)ほどの大きさの磁石があった。これもくだんの飛行機の部品である。出征してまだ国内にいたころの父を慰問すると、必ず土産として持たせてくれる成田山の羊羹に、大きさも形も似ていた。当時、市販の磁石は馬蹄(ばてい)形の、磁力の弱いものだったから比較にならない。父の遺品として母が大事にしていた懐中時計に、弟がこの磁石を当てたものだから、以後使い物にならなくなり、弟は母から大目玉を食らった。



(c)yoshihiro enomoto



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