『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2012/08/20
子供

  第二十一回  川遊びと、怖い雷

 プールなどない時代に育った私達子供のころは、水遊びと言えば近くの川ででしかできなかった。海なし県の群馬で育っているから、海で泳ぐことなど、まさに夢の夢でもあった。それも、半ズボンのベルトと、腰に()(ぬぐ)いを一本下げていればどこでも泳げた。ベルトの後ろに手拭いを(しば)り、その先を前のベルトにくぐらせれば、いっぱしの(ふんどし)になった。だからどの子も、褌の跡だけが白く、体中が真黒に日焼けした。
  ふどし結ふことが愉しや泳ぎの子    軽部烏頭子
 こんな一句を見ると、そんな時代が思い出される。
 泳ぐ川は、家からほど近い幅三十メートルほどの石田川と南に半道(一里の半分、二キロ・メートル)の利根川の二つがあった。石田川には灌漑(かんがい)用の(せき)があって、高い水門があり、水深は三メートル余あった。この水門から飛び込むには一種スリルがあって、下手に飛び込むと水底の石に頭をぶつける羽目になる。それも慣れてくると、腕を上にそらせて飛び込んで、うまく浮いてくるようになる。
 この川での不幸は、近くにあるT酒造からの下水管が注いでいることであった。ここでは藷焼酎(いもじょうちゅう)を作っていて、その酒粕(さけかす)は、農家の牛馬の餌にするとのことで、時々、粘土状のそれを積んだ荷馬車を見かけた。その酒粕を絞った廃液がこの川に流される。予告もなしにである。それも膨大な量だった。
 この焼酎会社を、どんな字を書くのか知らないが、みんな「よも」と呼んでいた。誰かが「よもが流したぞ」と叫ぶと、途端に焼酎と覚しき異臭が漂ってきて、川が茶色く濁り始める。この一瞬に皆陸に上がるが、少しでも後れようものなら、鼻の(わき)から目のくぼみ、耳の後ろにまでこの茶色の異物が付着して、なかなか取れなくなる。
 この「よも」の廃液流しで、子供にとり唯一の喜びは、小魚が浮くことだった。多分この廃液にはアルコール分が含まれていたのだろう。こんな事態を予測していた誰かが、たも網を用意してくるから、以後は魚捕り合戦になる。(うなぎ)や鯉、(なまず)といった大型の魚は浮かないが、(ふな)(たなご)(はや)といった小魚が白い腹を見せ、浮き始めるから、争奪戦が始まる。
 こうした堰の上で泳ぐときは、水の流れも止まっているから、平泳ぎも背泳ぎもできるし、まだ犬()きしかできない、小さい子にも格好の水泳ぎの場となった。ただし、川の流れの速い所で泳ぐには、やはり抜き手に限る。この泳ぎは自由形のクロールの泳ぎ方で、これと違うのは、首を上げ、頭を出して泳ぐ方法だった。
 一方の利根川は、台風の後や雪解け水の多い季節以外は、それほど水量は多くない。ただ子供たちが本水と呼ぶ本流は流れが速く、浚渫(しゅんせつ)(せん)で砂利を掘ったところは深く、小渦がたくさんあった。子供達はここを「ふかんど」と呼んで緊張した。この「ふかんど」に漢字を充てると「深所」となることは、大人になってから知った。この渦の多い「ふかんど」と速い流れを泳ぎ切るには、先の抜き手の泳ぎ方が必要だった。それでも流されながら、一キロも先の埼玉県側の対岸にやっとたどり着くほどだった。
 こうして絶えず泳いでいる子供に怖かったのが雷だった。不意にやってきて、稲妻のあと落雷の大音響、外にいるとこれほど怖いものはない。そのための防衛策は子供なりにいくつかあった。
 その雷を、病臥(びょうが)の石田波郷は、こんな風に詠んだ。
  雷落ちて火柱見せよ胸の上
 用心の第一が、東北の方角の御荷鉾(みかぼ)(やま)に雲が掛かったら、雷の前兆だから、できるだけ早く水から揚がることだった。御荷鉾山が見えない場所でも、この方角に出る雲には用心した。御荷鉾山とは、藤岡市と神流(かんな)町、旧鬼石(おにし)町(現藤岡市)の境にある山である。昔から山岳信仰でも知られる山でもあった。
 これは少しあとの、高校生のころ知った言葉だが、大人達の間で言う「御荷鉾の三束半(みつたばはん)」がある。つまるところ、この御荷鉾山に雲が掛かったら、刈った麦の束を、三束半束ねるか束ねないうちに、雷がやって来る――早さのことを言った言葉である。
 その第二は、雨宿りに木の下に入るな、である。当時といえども、駅舎や工場など大きな建物には避雷針が備えられていたが、木にはそれがない。とくに高い木ほど怖い。私の近くの寺には護神木として、樹齢五百年の杉が五本あったが、うち三本は梢から中ほどまで落雷で裂けていた。先日、茨城、栃木を襲った竜巻の折、木の下で一人が雷に打たれて死んでいるが、これなどはその例である。
 その三つ目は金物に近づくな、遠ざけよ、ということである。まず取り除くのが、ズボンのベルトの金具や、ポケットに入っている(ばい)独楽(ごま)、小銭のたぐいである。それから、自転車には乗らない、水門の金具には近付かない、トタン()きの屋根の小屋には入らない、などを徹した。比較的安全だったのが、田や畑の(あぜ)にある、稲を干す時に使う稲架木(はさき)や、祭りの際(のぼ)り用に使う木を横にしてしまう小屋などだった。ただしこれも、トタン葺きだったら入らなかった。
 中学生くらいの生意気盛りともなると、雷を科学的に見ることも覚えた。雷の閃光(せんこう)を「お光」と呼んでいた。これは一瞬にやってくる。これと一緒に発生したはずの雷鳴、つまり「ゴロゴロ」は少し後れて届く。光速と音速の違いである。
 これは中学の理科でも習うが、音速は摂氏零度の場合、秒速三三一メートルで、一度上がるごとに〇・六メートル速くなる。例えばこの日の気温が三〇度だとすると、秒速は三四九メートルになる。だから私達は、閃光から雷鳴までの時間を手計りした。つまり、この一〇秒は距離にして四・五キロ・メートル離れているので安心した。
 怖いのは、閃光から雷鳴までの時間が近いことである。そんな時は、頭を抱えて地面に伏せるしかない。このことと関連すると思っているのが、戦時中広島に落ちた原子爆弾の別名「ぴかどん」かも知れない。原爆が爆発して「ピカッ」と光ると同時に、「ドーン」の大音響で辺りが壊滅する――というのが、その名のいわれである。案外知られていないのが、この命名者が広島の子供だったことだ。この「ぴかどん」は、子供の頭に雷のイメージがあったはずである。
 




(c)yoshihiro enomoto



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