2012/08/20 |
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第二十一回 川遊びと、怖い雷 |
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プールなどない時代に育った私達子供のころは、水遊びと言えば近くの川ででしかできなかった。海なし県の群馬で育っているから、海で泳ぐことなど、まさに夢の夢でもあった。それも、半ズボンのベルトと、腰に ふどし結ふことが愉しや泳ぎの子 軽部烏頭子 こんな一句を見ると、そんな時代が思い出される。 泳ぐ川は、家からほど近い幅三十メートルほどの石田川と南に半道(一里の半分、二キロ・メートル)の利根川の二つがあった。石田川には この川での不幸は、近くにあるT酒造からの下水管が注いでいることであった。ここでは この焼酎会社を、どんな字を書くのか知らないが、みんな「よも」と呼んでいた。誰かが「よもが流したぞ」と叫ぶと、途端に焼酎と覚しき異臭が漂ってきて、川が茶色く濁り始める。この一瞬に皆陸に上がるが、少しでも後れようものなら、鼻の この「よも」の廃液流しで、子供にとり唯一の喜びは、小魚が浮くことだった。多分この廃液にはアルコール分が含まれていたのだろう。こんな事態を予測していた誰かが、たも網を用意してくるから、以後は魚捕り合戦になる。 こうした堰の上で泳ぐときは、水の流れも止まっているから、平泳ぎも背泳ぎもできるし、まだ犬 一方の利根川は、台風の後や雪解け水の多い季節以外は、それほど水量は多くない。ただ子供たちが本水と呼ぶ本流は流れが速く、 こうして絶えず泳いでいる子供に怖かったのが雷だった。不意にやってきて、稲妻のあと落雷の大音響、外にいるとこれほど怖いものはない。そのための防衛策は子供なりにいくつかあった。 その雷を、 雷落ちて火柱見せよ胸の上 用心の第一が、東北の方角の これは少しあとの、高校生のころ知った言葉だが、大人達の間で言う「御荷鉾の その第二は、雨宿りに木の下に入るな、である。当時といえども、駅舎や工場など大きな建物には避雷針が備えられていたが、木にはそれがない。とくに高い木ほど怖い。私の近くの寺には護神木として、樹齢五百年の杉が五本あったが、うち三本は梢から中ほどまで落雷で裂けていた。先日、茨城、栃木を襲った竜巻の折、木の下で一人が雷に打たれて死んでいるが、これなどはその例である。 その三つ目は金物に近づくな、遠ざけよ、ということである。まず取り除くのが、ズボンのベルトの金具や、ポケットに入っている 中学生くらいの生意気盛りともなると、雷を科学的に見ることも覚えた。雷の これは中学の理科でも習うが、音速は摂氏零度の場合、秒速三三一メートルで、一度上がるごとに〇・六メートル速くなる。例えばこの日の気温が三〇度だとすると、秒速は三四九メートルになる。だから私達は、閃光から雷鳴までの時間を手計りした。つまり、この一〇秒は距離にして四・五キロ・メートル離れているので安心した。 怖いのは、閃光から雷鳴までの時間が近いことである。そんな時は、頭を抱えて地面に伏せるしかない。このことと関連すると思っているのが、戦時中広島に落ちた原子爆弾の別名「ぴかどん」かも知れない。原爆が爆発して「ピカッ」と光ると同時に、「ドーン」の大音響で辺りが壊滅する――というのが、その名のいわれである。案外知られていないのが、この命名者が広島の子供だったことだ。この「ぴかどん」は、子供の頭に雷のイメージがあったはずである。 |
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(c)yoshihiro enomoto |
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