『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2012/08/30
子供

  第二十二回  鶏冠(とさか)よ、出るな伸びるな

 子供のころは動物を飼いたがるが、山羊(やぎ)のような大型のものは、場所も広くとるし、第一(えさ)の量が多いから、とても親から許してもらえなかった。しかし、鶏や(うさぎ)なら子供の世話でどうにかできる範囲なので、飼うことを許してもらえた。
 中でも鶏を飼うことは子供達の間ではやり、ひよこから育てた。戦後もしばらくたつと、受精卵を育雛(いくすう)()(かえ)して育てる養鶏業者もあちこちにできた。決まった時間がたって、育雛器の箪笥(たんす)ふうの引き出しが開けられると、中から孵ったばかりの(ひな)が盛り上がるように出てくる。それらが大笊(おおざる)に入れられ、表で待つ鑑別士のもとに運ばれていく。
 多分こう書くのだろうが、この稿を書くに当たって辞書等で鑑別士なる職業を調べてみたが、一切出ていない。それはともかく、その鑑別士の早業に、子供の私達は驚かされたのである。
 脇に置かれた大笊から、右手でつかむやいなや、親指の腹でひよこの尻の毛をめくり、雌雄を鑑別するのである。ほんの一、二秒の早業である。雌雄の鑑別の済んだひよこは、右と左の笊に雌雄別に分けられ、雌だけが大事に扱われる。
 分けられた雄はどうされるかといえば、大きな養鶏場のそれは、農家に持ち込まれ、煮て豚の餌にされる。よく、当時の夜店で箱に入れられ売られていたひよこの類は、この雄である。
 養鶏場や農家への出入りが自由だった子供は、この雄のひよこなら、いつでももらうことができたから自分で飼うことになる。当時は蜜柑(みかん)箱も林檎(りんご)箱も木製だったので、これを飼育箱に使った。ひよこなら、小さめの蜜柑箱で十分だった。出し入れや餌やりの折に開ける口を付け、前面に網を張れば完成である。
 子供は、ひよこでなく、ひよっこと呼んでいた。子供ながらに、大人びた口を利いたりすると、大人からも、「まだ、くちばしの黄色いひよっこのくせに!」などとからかわれたりもした。
 この、もらってきたひよこを飼うにも訳があった。その鑑別士の雌雄鑑別率は百パーセントとは限らないことを子供達がよく承知していた。雄と分かっていて育てたら、成長して雌鶏になった例をたくさん聞いていたから、誰もが雌鶏に育つことを願って育てた。
 ひよこの餌は穀類がよかったが、人間の残飯で十分だった。ただ、雌鶏になることを念じて、朝飯の残りの浅蜊(あさり)(しじみ)の殻は、石の上で金槌(かなづち)でたたいて、細かくつぶして餌に混ぜた。鶏を飼っている家で、産んだ卵の殻が固くなるようにしていた方法に、子供もならったのである。ただ、もう、雌鶏になることだけをひたすら願った。
 暖かい時節ならひよこも飼いやすいが、冬が大変だった。どの子も家の中に巣箱を取り込み、よほど寒い晩は、暖房に電球を点けた。電球の明るさは後にワットで表記されるが、当時は「(しょく)」と呼んでいた。私の記憶が間違いでなければ、百燭は百ワットだった。電気の大事な時代だったから、どこの家も六十燭とか四十燭の電球の明るさで生活していた。今でいうトイレなどは、足許さえ見えればいいので、せいぜい十燭の灯で十分だった。ひよこ用の暖房には、もっぱら十燭の電球を使った、と記憶している。
 ちょっと話が逸れるが、戦中、戦後は、化学肥料などはない時代だから、農家では堆肥(たいひ)金肥(きんび)糞尿(ふんにょう))を使った。これらの肥料は発酵してから使うのが原則だが、間に合わない場合は、それ以前の金肥を畑にじかに散いた。それがため、戦後、食べた生野菜から回虫が腹の中に生まれ、駆除薬の海人(かいにん)(そう)を飲まされた。私もその一人である。
 一方の堆肥は、改めて書くまでもないが、野菜の屑から、抜いた雑草まで何でもよく、これらを積み上げ、これまた尾籠な話だが、さらに金肥をかけておくと、やがて発酵してきて温度が高くなり、雨が降ったりすると湯気が立ったりもする。発酵し切って肥料として散く折には、真っ黒な、土に近い状態になっていた。
 この堆肥の発酵する温度を利用して、農家の子供達はひよこを飼った。堆肥の山の中ほどを削り取り、くだんの蜜柑箱の巣箱をはめ込むのである。これが、一種のオンドル効果となって、私達の十燭電球育ちより、ひよこは元気になっていく。
 やがて、ひよこには白い羽根が目立ち始め、丈も大きくなり、そろそろ私達の期待の時期になる。鶏冠(とさか)の生えるころなのである。頭の天辺に鶏冠の朱が見え始めると、ひたすら、「出るな、伸びるな」とつぶやく。そんな思いに反して大方は雄鶏で、やがて鶏冠が大きくなり、折れ曲がって、当然のように、「コケコッコー」と鳴いて、時を作るようになる。これは中学生になってからだが、コケコッコーの擬音を、英語では「クックドゥードゥルドゥー」と呼ぶことを、英語の教師から教わった。
 この雄鶏は、町の肉屋にさばいてもらって鶏肉にするのだが、自分たちが飼っていたからなのだろう、弟も(はし)を付けようとしなかった。一度だけ、期待通りに雌鶏に変じたことがあったが、この親鶏、いっこうに卵を産んでくれない。しびれを切らして、母の助言で肉屋にさばいてもらったら、肉屋の言うことには、「数日後から、産むことになっていたのに」だった。その証拠に、まだ、ブヨブヨの白い殻に包まれた卵から、小指の先ほどの大きさの卵までが、さながら念珠のようにつながた(かたまり)として、さばいた鶏肉の中に混じっていた。





(c)yoshihiro enomoto



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