『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2012/09/10
子供

  第二十三回  誰もが祈って「てるてる坊主」

  かつての子供は、運動会や遠足の前日ともなると、晴天を願って必ずてるてる坊主を作って、軒下や窓枠に吊るした。真四角の白い紙や(さらし)布の真ん中に(しん)を入れ、首のところを糸で(くく)った簡単なものだった。そんなてるてる坊主が吊られているのを見ると、「この家にも子供がいるんだな」と思ったものである。
 そんな習慣を情緒的にさせてくれるのは、童謡の「てるてる坊主」があったからかも知れない。大正十年(一九二一)に、浅原鏡村作詞、中山晋平作曲で生まれたこの童謡は三番まであり、三番とも、「てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ」で始まる。
 この童謡は、作詞の浅原が、故郷の長野県の松本城址から山にかかる雲を見て発想したもので、この年の少女雑誌「少女の友」六月号に発表されて有名になった。
 改めて書くまでもないが、一番は「あした天気に しておくれ」の後に、「いつかの夢の 空のよに 晴れたら 金の鈴あげよ」と続く。「いつかの夢の 空のよに」の文言が実に優しい。二番は、「私の願いを聞いたなら あまいお酒を たんと飲ましょ」となる。「あまいお酒」とは甘酒のこと。
 この童謡は、戦後の音楽教科書にずっと掲載され続けたが、昭和四十五年を最後に姿を消している。その理由は、三番の次の一節にあった。「それでも曇って 泣いてたら そなたの首を チョンと切るぞ」がそれである。教師たちから、残酷過ぎるの批判が多く出たからだという。
 てるてる坊主の発想、この童謡にもあるように、私の願いを聞いてくれたら、金の鈴をあげよとか、甘酒をたんと飲ましょとあるので、日本に古くからある人形(ひとがた)が転化したものと思いきや、それは違う。
 この元祖は日和坊主のことで、その習慣は中国にあった。中国の(しん)の時代の年中行事を記した『(えん)(けい)歳時記』には、「掃晴娘」として出てくる。これを「サオチンニャン」と読む。歳時記の部立てでは、六月の候に入れてある。日本もそうだが、中国の陰暦の五月は雨がことに多く、物が腐りやすく、病人が出やすいので「悪月」と呼んでいる。
 そんな季節に、閨中(けいちゅう)(女子の居間)にいる少女たちは、髪を()り、人形を作って、それを門の左側に懸けるのだという。これが掃晴娘で、文字づらも、いかにも中国らしい表記といえる。この人形作りの静かさに、日本の俳句を当てはめると、
  部屋ごとに静けさありて梅雨兆す    能村登四郎
の一句が似合うかもしれない。
 日本では、江戸時代になってから、てるてる坊主が作られ始めたが、中国との違いは坊主頭にあった。『嬉遊(きゆう)笑覧(しょうらん)』と言えば、この時代に書かれた随筆集だが、そこには、坊主を吊りてもし雨が止めば、目と鼻と口を付けてお(まつ)りするとある。そう言えば、私達子供のころも、願い通りに天気になった折、顔を描き入れた記憶がある。
 西日本には現在も日和坊主の形が残っていて、白い坊主頭のところまでは同じだが、逆に雨乞いに使うときは、頭を黒くすることになっている。この両様の使い方は、「ころり道心」の珍奇な名で茨城県や福島県に残っていて、日乞いと雨乞いの両方に使うという。
 こうした人形のどれもが、坊主頭なのにも意味がある。かつての天気祭の司祭の多くは、旅の僧の聖や修験者だったからというのだ。この話は、少々信用しがたいところもある。





(c)yoshihiro enomoto



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