『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2012/09/20
子供

  第二十四回  貴重な石けんから、しゃぼん玉

 「しゃぼん玉、とんだ。屋根までとんだ。屋根までとんで、こわれて消えた」
 子供ならば誰でも歌える童謡「しゃぼん玉」の一節である。童謡コンビと言われた野口雨情と中山晋平の作詞、作曲である。大正十二年(一九二三)の誕生というから、日本人にとっては、懐かしいというより、体の一部にもなっている一曲かも知れない。ここに歌われる子供の遊び「しゃぼん玉」もしかりである。
 今では、ストローの付いたしゃぼん玉用の液は、子供相手の店のどこにも置いてあるが、かつてはこの液を誰もが自分で作った。手元にある石けんを溶いて作るのだが、薄いとストローで吹いても玉にならない。濃い液を仮に作っても、大きな玉にはなるが、じきに弾けて、童謡に言う「屋根までとんだ」とは、とてもならない。そのため、石けん水に粘り気を出すため、どこにもある松の木から採ってきた(やに)を混ぜて完成させた。私より五歳も若い弟などは、どこで手に入れたのか、松脂にかえてグリセリンを使っていた。こちらのひがみかも知れないが、弟達のしゃぼん玉は、七色に輝いても見えた。
  流れつつ色を変へけり石鹼玉(しゃぼんだま)  松本たかし
といった具合いに、である。
 当の石けんだが、貴重品だから、我が家では、私も弟達も化粧石けんなどは使わせてもらえず、風呂場でも洗たく石けんを使った。この代物、匂いなどまったくないが、泡だけはよく立つ。当時、進駐軍からどういうルートで入ってくるのか、いい匂いのする化粧石けんも出回っていて、我が家でも愛用品の一つで母しか使えなかった。確か「ラックス」と呼ばれていて、スペルもLUXだったように覚えている。
 二重に包装されたこの石けんを、母の目を盗んでは時々しゃぼん玉に利用するのだが、その匂いのよさは、子供の私にもたまらないものだった。この盗用は母にすぐ見つかり、大目玉を食らった。
 当の石けんだが、しゃぼん玉と同様にしゃぼんと呼ばれていた。「しゃぼんを無駄にしないのよ」とか、「首のところは、よくしゃぼんを付けて洗うのよ」といった風に使われていた。
 このしゃぼんが外来語であることは、それから随分後になって知ることになる。
 『嬉遊(きゆう)笑覧(しょうらん)』というと、今から二百八十年も前に書かれた随筆集だが、その中にも、「紅毛人(オランダ人)セップといひ、羅甸(らてん)語にサポーネといへるを、転訛(なまり)てシヤボンといふ也。(くだん)の玉を吹くことを水圏戯(すいけんぎ)といふ」と出てくる。しかし、現代の歳時記には、さすがに「水圏戯」の言葉は見当たらない。
 当時、婦女子の間ではやった遊びだったが、さすがに石けんは貴重品だったらしく、ならばとばかりに、『嬉遊笑覧』には、そのことも書いてある。いわく「無患子(むく)、芋がら、烟草(たばこ)茎など焼たる粉を、水に漬、竹の細き管に其汁を(ひたし)て、吹ば、玉飛て日に映じ、五色に光りてみゆ」という。
 無患子(むくろじ)とは、ムクロジ科の落葉高木で、果皮は古くから石けんの代用として使われたし、種子は羽子つき遊びの羽根に利用される黒い球である。芋がらはサトイモの茎で、芋茎(ずいき)と呼んで食用になるあれである。確かにこれら植物には粘り気があって、しゃぼん玉に向いていたのかも知れぬ。ただし烟草だけは当時の専売公社の代物だったから、私達の目に触れるところにはなかった。
 ついでながら、しゃぼん玉の当時の流行について触れた文献もあるので、それも紹介してみる。これも江戸後期に書かれた風俗誌の『守貞(もりさだ)漫稿(まんこう)』だが、京坂での振り売りの決まり文句は、「ふき玉やしゃぼん玉、吹けば五色の玉が出る」だったという。それに引き替え江戸では「玉や玉や」と素っ気なかったと書く。当時、女性の間で流行し、夏の玩具(がんぐ)として売りに来たというが、どういうことか、今の歳時記の部立てでは、春の季語ということになっている。
 冒頭にも触れた童謡「しゃぼん玉」だが、この歌の出自について、作詞者の野口雨情の悲話があったことを後に知った。雨情は青年期に長女を生後八日で亡くし、更に次女も二歳で亡くし、そのはかなさを、この歌に托したと言われる。そういわれれば、「しゃぼん玉」の二番の一節は、こういう文言になっていた。
 「しゃぼん玉、消えた、飛ばずに消えた。うまれてすぐに、こわれて消えた」




(c)yoshihiro enomoto



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